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知恵を求めたソロモン [チャペルタイム]

みなさん、再び、こばにちは。ぶぅでございます。
今日は、咳がひどかったので、お仕事お休みしちゃいました。
カフェなのですが、お菓子を作ったり料理したりするので、容易に咳ができないのです。
ってことで、今日は2個目の記事アップです。
今回は、黒田明先生です。

聖書箇所=Ⅰ列王記3:5~14
説教題=知恵を求めたソロモン
中心聖句=あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

今回、みなさんと考えたいテーマは、「祈り」です。聖書の中には神さまに祈った人の話がたくさんでてきます。例えば、旧約聖書の中にアブラハムという人がいましたが、彼のとりなしの祈りは有名です。甥のロトが住んでる町ソドムが滅ぼされてしまうことを知ったアブラハムが心を痛め、助けてくださるように、何度も何度も神さまに祈ったこの記事、この時の彼の祈りは、すぐに祈ることをやめてしまいやすい、すぐにあきらめてしまいやすい私たちにとって、失望しないで祈り続けることの大切さを教えているのではないでしょうか。

今回のところには、ダビデの息子、ソロモンが次のイスラエル王位継承者となったときの祈りが取り上げられています。
ある日、神さまがソロモンの夢の中に現れ、「ソロモンよ。あなたに何を与えようか。願え。」と言われました。このような神さまからの問いかけに対して、ソロモンは、真っ先に神の民イスラエルのことを考えました。彼はこう言っています。
「神さま。あなたは私を王とされました。しかし、私は年が若くて、何もわかりません。ですから、どうぞ、この民を正しく治めていくことができるように、私に知恵を与えてください。」
ソロモンは、神さまが委ねてくださった「この国、この民」のために必要と思われるもの、しかもそれを悪い動機からではなく良い動機・純粋な動機から彼はそれを祈り求めたのです。

10~14節には、ソロモンの祈りに対する神さまからの応答が記されています。それによると、7神さまは彼の願いどおりに知恵を与えてくださいました。さらには、彼の求めなかった富や名誉や長寿、そうしたものまでもが与えられました。
しかし、だからといって私たちはここから、私たちの祈った祈りがすべて「即時即応」になるということを期待してはなりません。というのも、いろいろなケースがあることを聖書は教えているからです。
「すぐにOK」のときばかりでなく、「すこし待て」のときがあり、「忍耐強く待て」のときがあり、さらに「NO」のときがあります。
例えば、パウロを例にとると、彼の祈りはそのとおりによく聞かれました。彼が祈ると、そのとおりになったのです。しかし、彼には肉体的に一つの悩みがあり、そのことでも彼は真剣に祈りました。祈り続けました。その答えは「よし、治してやろう」ではなく、「わたしの恵みはあなたに十分である」というものでした。けれどもパウロにとってそれがどんなに大きな慰めになったか。というのも彼はかつて、それは厄介な病気、ご奉仕をする上でのマイナスというふうに考えていたからです。しかし、主はその弱さを通して、ご自身の力を発揮してくださいました。弱さこそが、主の力のすばらしさが現れる舞台になるのです。さらには、癒しだけが主の栄光ではなく、この地上にあっては病気の者を病気のままで。主は豊かに用いてくださいます。こういったことが、彼にはわかったからです。
さて以上のことから、きょうは神さまからの祈りの応えというのは、まるでジュースの販売機のように、ボタンを押せば、自分の望みのものがでてくるというたぐいのものではないということをみてきました。私たちは、つい、神さまを自分にとっての都合の良い自動販売機にしてしまいがちです。しかし、私たちはもう一度祈るということがどういうことなのか。日々の信仰生活、祈りの生活の中で教えられながら、少しずつ成長していくものでありたいと思います。

以上になります。ここまで読んでくださりありがとうございます。
「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(Ⅰテサロニケ1:2~3)」

今週の聖歌♪ 新聖歌196
「祈れよし道は 暗くあるとも
祈れすべてを 主の手に委ねて」

サムソン [チャペルタイム]

みなさま、またまた遅れまして、こばにちは。
ぶぅです。
ぶぅは最近、って言っても、去年の9月ですが、免許をとりまして。
ですが、危ないっていうのと、心配っていうのがあって、しばらくは母に助手席に乗ってもらっていました。先月からカワチと職場(車で約10分)、教会は一人で行けるようになりました♡
そして、なんと!!今日は!!一人で!!真岡に行ってきます。
まだ、バック駐車ができないので、ほんと行くだけですが←
はい。行くだけです。一回りして帰ってきます。
がんばれ、ぶぅ!!
そんなノリに乗っているぶぅが、今日もやりますよ!!はい、チャペルタイム要約です。
今回は、黒田眞琴先生です。

聖書箇所=士師記16:4~22
説教題=サムソン
中心聖句=私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)

士師記に登場するリーダー、士師は12人おり、サムソンはペリシテ人の国境近いイスラエルのダン族に属する12番目の士師です。彼は、父マノアと、長らく不妊であった母との間に待望の第一子として生まれました。その経緯は士師記13章にあります。あるとき、主の使いが、母に現れ、言います。「生まれてくるその男の子を生涯のナジル人(聖別された者)として育てなさい。」と。
主の使いは母になろうとしているこの女性にお命じになったのです。
長らく不妊で、祝福されない女性とされてきた彼女は、一気に、神に仕えるナジル人の母とされるのです。
さて、こうして月日がたち、確かに主の使いが告げられた通り、母はみごもり、男の子を産みました。名前はサムソン(意味は「太陽の人」「太陽の子」または「破壊的」「強健な」)とつけられました。ナジル人については、民数記6章に詳しく記載されていますが、サムエルは①お酒を飲まない②汚れたものを食べない③髪の毛を切らないという3つの約束を守ること、これらを幼少のころより、両親から学び、育てられていったのです。
こうして神の選びの中育てられたサムソンには、特別な賜物が与えられていました。それは、人並み外れた、超自然的な力、怪力という賜物です。また、他の士師たちと違うのは、他の士師たちが民を率いて外敵と戦うのに対し、サムソンはたった一人で多くの敵を悩ましました。
様々なエピソードが聖書に記載されていますが、物語の主人公としては非常に魅力的です。
しかし、イスラエルの信仰的リーダーとしては、必ずしも褒められた点ばかりの士師ではありませんでした。彼には決定的な弱点があったのです。
1つ目は、彼には自己中心的な幼児性があったということです。
彼は自分の感情をうまくコントロールすることができなかったのです。14章にこんな記載があります。ある日彼は、ペリシテ人の娘に出会います。一目見てすっかり気に入ったサムソンは、家に帰ると父と母に「ティムナであったペリシテ人の娘を妻にしたい」と言い出します。
当時のイスラエルでは、まことの神を知らない者との結婚が禁じられていましたから、両親は反対しました。するとサムソンは駄々をこねて、強引に自分のわがままを通し、結婚してしまいます。
結局、自分の感情をコントロールできない彼の結婚生活はうまくいかなかったのですが、これも神の御手の中のことだったのです。

二つ目の弱点は、女性の涙に弱いということです。
彼は、デリラというペリシテ人の女性と出会い、彼女を恋慕うようになります(16章)けれども、残念ながら、デリラにはサムソンへの愛はなかったようで、報酬につられてサムソンの弱点を探るために、サムソンと共にいました。
サムソンは何度もデリラにせがまれ、彼女に、ナジル人としての秘密を教えてしまいました。
サムソンはペリシテ人にとらえられ、両目をえぐりだされ、足かせをはめられ、ついに牢の中で臼をひくという非常に悲惨な結末を迎えるのです。その引き金となったのは、異性に対する彼の弱さと何度騙されてもそこから学習しない彼の未熟さでした。

ここで確認しておきたいことがあります。
サムソンはナジル人としての契約のゆえに、神から特別な力を与えられていましたが、それは単に髪の毛に力の源があったわけではなく、神が共におられるゆえの力であったということです。
サムソンにとって、この投獄の日々は決して無駄ではありませんでした。
そして、聖書は、この悲惨な状況の中にあっても「サムソンの頭の毛をそり落とされてから、また伸び始めた」と光を与えています。
彼は、ここで、今までの自分自身を神の前に深く悔い改める機会を与えられました。
彼は自分の力にうぬぼれ、だんだん自分勝手になってしまっていたことを悔い改めました。
彼は祈りました。「サムソンは主に呼ばわって言った「神、主よ。どうぞ私を心に留めてください。ああ神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。」と。

このサムソンの真実な悔い改めと祈りに、神は確かにお応えくださいました。
悔い改めて神に立ち返ったサムソンを、神は豊かに赦してくださったのです。
それだけでなく、神は彼を再び立ち上がらせ、士師として豊かに用いてくださいました。

私たちはここに「神のあわれみ」を見ることができます。
どんなに失敗の多い私たちでありましても、悔い改めて、神に立ち返るならば、神は悔い改める者を顧み、その関係を回復してくださるのです。
私たちは神によってのみ強められる存在であり、この地上にあって神の民として雄々しく証しの生活ができるのは、この神によって強められているからなのです。このことをしっかり心に覚え、私たちの意思をもってこの神に従っていきたいと思います。

以上になります。中心聖句をまた書いて終わりにしたいと思います。
『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)

今週の聖歌♪ 新聖歌357
「わがより頼む主は 委ねたる身と魂を
守り得給うと 確信するなり」

ギデオンの召命 [チャペルタイム]

みなさん、またまた遅れましてこばにちは。
ぶぅでございます。
ぶぅ、最近、読書をすごい勢いでしております。
一日に一冊は読んでます。
でもね、クリスチャンブックじゃないの。
今読んでるのは、浅田次郎さんの「壬生義士伝」です。
新選組の吉田貫一郎さんのお話です。面白いですよ。浅田次郎さんは読みやすくて好きです。
ちなみにいままで読んで一番好きな浅田次郎小説は、「一刀斎夢録」です。
やっぱり新選組の斎藤一のお話です。
はい、くだらない話をごめんなさい。
チャペルタイム要約入ります。
今回は黒田眞琴先生です。ありがとうございます。

聖書箇所=士師記6:1~24
説教題=ギデオンの召命
中心聖句=神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(Ⅱテモテ1:7)

本日は士師記に登場する5番目の士師であり、マナセ族のギデオンについて学ばせていただきたいと思います。ギデオンの名前の由来は「伐採者」「切る者」です。
勇士として知られるギデオンですが、その性質は元来臆病で、どちらかといえば、内向的な性質であったようです。神の選びによって当時イスラエルを荒らしていたミデヤン人と戦い、ギデオン生存中は、イスラエルは安定していました。残念ながら彼の死後、民は偶像礼拝に戻ってしまいましたが。

さて、士師記の時代についても学びの前に確認しておきたいと思います。この時代のイスラエルは、モーセやヨシュアのようなイスラエル全部を導くような主の器が現れない、異民族の侵略に苦しんだ時代でした。そして、この時代、危機に際して主が立てられた士師たちが、それぞれの信仰で民族を開放する働きをしていったのでした。実は、士師の中には信仰の確信も勇気もないような人物も含まれていて、まさにギデオンがそうだったのです。ミデヤン人の支配下、ギデオンは現実から逃げるような生活を行っていたのです。主はそんな、真逆ともいえる性質の人物を「解放者」としてい用いてくださいました。
主に背く民をご自身に立ち返らせるために、主はミデヤン人にイスラエルを攻めさせました。助けを求める民に応えて、主はギデオンを選ばれたのです。11~12節をご覧ください。ギデオンはミデヤン人から隠れて小麦を打っているような臆病な人でしたが、主は彼を将来の勇士として見ておられました。ギデオンを選ばれた主は、彼を「勇士よ。」と呼んでくださいました。
主は、私たちの中にも「勇士」を見ておられます。
私たち自身は、周りの人々からの評価や過去の成績、経験から自分自身を目積もりしてしまいます。けれども、神は私たちの能力や経済力、おかれた環境、実際の年齢などすべてを全く無視されたように、全然違う私たちを見ておられるのです。それを掘り出していただくには誇りも卑屈も捨てて、そのままの自分を、神に差し出すことが必要です。そうするなら、私たちではなく、キリストが私たちのうちに生きてくださるのです。
ギデオンについてまとめてみます。
ギデオンは士師として神からの特別な召しをいただいた人物のひとりでした。けれども、召された当初の彼は勇敢な信仰者でも、従順な信仰者でもありませんでした。むしろ、信仰は逃げ腰で、性格は少々へりくつぎみでもありました。それらは、たとえば、主の使いとの対話の中で、神への不満、神への抗議を訴えている13節や、しるしを見ない限り、決して神からの約束を信じることができないと言っている17節、また36節から40節においても同じで、このような彼の信仰的弱さや性格的短所が出てきている言動を私たちはここに見ます。
そんな彼に対して、神はどのように対応されたのでしょうか。実はギデオンの弱さも短所も含め、神はギデオンをあるがままで召してくださったのです。そして、加えて、必要な知恵や力、また愛は神が与えてくださいました。こうして、神によってギデオンは整えられていったのです。つまり、神に用いられる器は金の器や、銀の器という特別な器ではなく、むしろ土のようにもろいけれども、神によってそこに火が通され、また清められた器、私たちであるということを、本日は特に覚え、神の私たちへの恵みのお取り扱いに感謝し、「主よ、どうぞ、私を用いてください」と祈るお互いでありたく思います。

以上になります。
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
(テサロニケⅡ 1:2)

今週の聖歌♪ 新聖歌390
「いざ揚げよ 主の御旗を いざ叫べ 主の道を
いざ仕えん 永遠に われらの主なるイエスに」

神の国にふさわしい人(パリサイ人と取税人の祈り) [チャペルタイム]

みなさん、こばにちは、ぶぅでございます。
更新遅くてごめんなさい。
ぶぅは今生活習慣改善中です。
2,3日前まで、夕方の6時に寝て、夜中の1時とかに起きて、お菓子を食べて、うつらうつらしてという、よくわかんない生活リズムをしていました。
5時ぐらいになると、何事にも集中できなくなっちゃって、いいや寝ちゃえ!!ってなってたのです。。。が!!、最近顔にニキビが。。。やばいくらい増えちゃって(-_-;)
これはだめだっと思い、おとといから、頑張って10時近くまで起きて、朝は7時に起きるという生活リズムに変えようと、頑張っております。

それはさておき、ごめんなさい、先週の日曜日のチャペルタイム要約です。
今回は黒田明先生です、ありがとうございます。

聖書箇所=ルカの福音書18:9~14
説教題=神の国にふさわしい人(パリサイ人と取税人の祈り)
中心聖句=神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)

きょうのところには、二人の人が登場してきます。パリサイ人と取税人です。イエスさまは、このたとえ話にふたりの人物を登場させ、対比させながら、どういう態度が神に受け入れられるのかを教えています。ある日のこと、パリサイ人と取税人がお祈りをするために神殿へとやってきました。すると、目立ちたがり屋のパリサイ人は、きれいな服を着て、いかにも自信ありげな様子で神殿の中に立ちました。実は、彼は他の人に教えられるくらい聖書をとてもよく勉強していました。それにいつも人のお手本になるようなよい行いもしていました。とりわけ、貧しい人たちへの施し、1日3回の祈り、また一週間に2度の断食をきちんと守ることでは、誰にも負けていませんでした。それはそれで確かに立派なことですが、彼の悪いところは、そういったよい事をわざと人の見えるところでしていたということです。イエスさまはある時、「よい事は人に知られないようにしなさい。右の手がする事を左の手に気づかせないくらい、よい事はこっそりしなさい。」とおっしゃいました。
ところが彼は、人に褒められたい、人に見られたいという思いから、よい事をしていました。
この日も彼は、遠くのほうに取税人が立っているのを見て、心の中で「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」とお祈りしました。
一方、取税人は神殿のすみに立ち、うなだれたまま悲しそうに自分の胸をたたいて、祈りにもならないような祈りをしました。
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」
当時、ユダヤはローマの支配下にありました。そして取税人の仕事はというと、ローマに納める税金を同胞のユダヤ人から集めるというものでした。しかし彼らは、必要以上にお金を取り立てては自分のふところを肥やしていたのです。ですから、取税人というと人々から大変に嫌われていました。
ここに登場する取税人は、パリサイ人の彼とは全く対照的です。自分の罪深さを知っていました。自分に失望し、こんな救われがたい自分を神に救っていただきたいとの魂の叫びが、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」ということばになって、出てきたのです。

ところで、イエス様は誰を対象に、このたとえ話をされたのでしょうか。それは「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」にです。また、このたとえ話は、パリサイ人と取税人との姿を例にとって、私たちにも「ふたりのうち、あなたはどちらに似ているか」を自問自答させようとしているのではないでしょうか。私たちにとって遠慮がちで謙遜な取税人は共感を誘います。一方、うぬぼれきった誇り高いパリサイ人には深い反感を感じます。しかし、「神さま。このパリサイ人のような人間でないことを感謝します」と言っている自分があるとするなら、それこそこのパリサイ人と少しも変わらないのではないでしょうか。
「感謝」は祈りの大切な要素の1つですが、人を見下したり、敬虔さのひけらかしによって生じる感謝は、神に受け入れられるものではありません。他人を自己の優越感の引き立て役にする人、みてくれの敬虔さをひけらかす人は、神に受け入れられないのです。
では、どういう人が神に受け入れられるのか。このたとえ話の取税人の祈りは、自分をほかの人と比較せず、短くも「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」というものでした。どんなに短くても、彼の祈りは神としっかりつながっていました。しっかり繋がっていたからこそ、憐れみ深い神に自分の弱さをさらけ出し、自分の罪を言い表すことが、できたのです。
一方、パリサイ人の場合、彼の祈りは神への祈りの形をとっているかもしれませんが、実はほかの人々にそれを聞いてもらいたがっているだけにしかすぎなかったのです。彼は神にしっかりとつながっていなかったので、自分の弱さを隠し、自分の罪を取り繕う生き方しかできずにいたのです。
私たちの祈りが人や人の評価につながってしまうのではなく、憐れみ深い神にしっかりとつながっていく、そういうものでありたいと思います。

以上になります。
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。(第Ⅱテサロニケ1:2)

今週の聖歌♪ 新聖歌449
「父なる御神に 今帰らん
この世を後ろに われ帰らん
帰らん帰らん われ帰らん
神よ愛の手 伸べ給え」

しきりに願う祈り [チャペルタイム]

みなさん、遅れましてこばにちは、ぶぅです。
日曜日ですね。相変わらず更新が遅くてごめんなさい。

さて、昨日は鹿沼・栃木・益子合同青年会でした。
赤ちゃん含めて、10人が集まりました。
赤ちゃんは最後のほうにちょこっとだけど。
11時に集合し、バターチキンカレーを作りました。リーダー大活躍でした。
めっちゃ頼りになる!!
そして、ごはん食べながら、映画鑑賞。「ソウルサーファー」を見ました。
泣くのを我慢するの大変だった。
勇気がでました。みなさんも見てみてちょ。
そのあと、ルカの6:27~36を輪読し、分かち合い。
節ごとに、感想を言い合ったのですが(参加は8人)、本当にいろんな意見があって、考えがあって、思うところがあって、自分のうわべだけ拾った意見が恥ずかしかったです。
でも、勉強になりました。

てことで、チャペルタイム要約入ります!!
今回は黒田明先生です。
聖書箇所=ルカ11:1~13
説教題=しきりに願う祈り
中心聖句=わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。
そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ルカ11:9~10)

よく言われていることの1つに「祈りとは、神さまとの会話である」というのがありますが、本当に
そうだなと思います。祈りとは、神さまとの会話であって独り言ではないと思うのです。
あなたの祈りは独り言ではないと本当に確信をもって言えるでしょうか。私があえてこのようなことを申し上げるのも、「私の毎日の祈りは、本当に神さまとの会話になっているだろうか」と自問自答していただきたいからです。
たとえば、あなたが誰かと会話しているとして、あなたのほうから一方的な話が始まるまではいいとしても、自分の話が終わってしまうと、相手からの返事を待たずに立ち上がってどこかへ立ち去っていくというようなことがあるでしょうか。そんなことをしたら相手に対して失礼になると思います。
ところが、祈りという神さまとの会話になると、そういったことを平気でやってのけてしまう方々がかなり多いのです。例えば、子どもたちの祈りはたいていそうです。目の前においしそうなごちそうが並んだりすると、一刻も早く食べたいという願いから早口な祈りになったり、口先だけの感謝になったり。そのわりには「アーメン。いただきます。」という言葉だけには、嬉しい正直な子供たちの気持ちが込められている。けれども、そこには神さまからの語り掛けに耳をかそうとする思いや時間や祈りのもう一つの側面などそういったところの意識が、残念ながら彼らはまだ薄いのです。

そこで、もう一つ確認しておきたいのですが、ことらから一方的に語り掛け、またお願いするだけでは会話になっていません。むしろ神さまがこの私に何を語り、何を示し、何を求めておられるのか。そういうところに耳を傾けながら、しっかり聞くという態度を持ち合わせていることが、本来の祈りであるということをいつも忘れないようにしたいと思います。


祈りについて、私たちは多くのことを学ぶ必要があると思うのですが、今回は集中してなされる祈りの大切さをごいっしょに学んでみたいと思うのです。
現代人の悩みの一つに、心を集中することができにくくなっているということがあります。多忙のあまり、あれやこれやと心が分散してしまって、一つのことに心を傾けるということができにくくなってしまっていると思うのです。なお、このことは祈るということにもあらわれているのではないでしょうか。例えば、デボーションをしている最中に歯磨きや爪切りのこと、掃除洗濯のことなどがふと気になりだすと、デボーションに集中できなくなり、ときにデボーションを中断してしまうこともあるわけです。

今回のところですが、ここはイエスさまの模範的な祈りと、また大事な祈りの態度についてが取り上げられています。「主よ。私たちにも祈りを教えてください」と弟子のひとりにお願いされたとき、こう祈りなさいと教えてくださったのが、「主の祈り」です。ここには祈りについてきわめて大事なことが教えられています。別なことばを使えば「心臓を強くして頼み込む」ということになります。私たちが心をかたむけ、集中的に何かをしようとするとき、一所懸命になります。そして気が付いたら恥も外聞も捨てて、なりふりかまわず行動していたということがよくあるように、それこそ祈りも真剣になればなるほど、普段、気にしがちな自分の体裁もどこへやら、それこそ正直な、時に涙と鼻水の出る、ときに神さまに喧嘩を吹っ掛けるような祈りにもなっていくのではないでしょうか。
今回のイエスさまの教えはすぐに祈ることをやめてしまいやすい、またあきらめてしまいやすい、私たちに対して、失望しないで祈り続けることの大切さが教えられていると思うのです。
さらには、私たちの求めに対して、神さまは喜んでそれを与えてくださるお方でもあるということが教えられていると思うのです。もう一つ大事なこと。私たちがこの地上で何より求むべきは聖霊である、ということを、13節から伺い知ることができるのではないでしょうか。
喜びあるクリスチャン生活、勝利あるクリスチャン生活の秘訣は、聖霊にあるということを覚えて、それこそ真剣になって聖霊の満たしを、聖霊の導きを求めようではありませんか。聖霊が私たちを内側から励まし、私たちを祈り続ける者へと変えてくださるからです。

今週の歌♪ 新聖歌196
祈れよし道は 暗くあるとも
祈れすべてを 主の手に委ねて

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:6)

クリスマス会!! [交流]

いやあ、ごめんなさい!!
クリスマス会のことアップするの忘れてました(>?<)

今回のクリスマス会ですが、栃木教会と益子キリスト福音館の合同礼拝でした。
何人集まったかなぁ。20人強くらい?
初めてお会いする方もいらっしゃいました。
今回のメッセージは、黒田明先生が鹿沼でのご奉仕だったため、たびたび、このブログでも登場する、協力牧師の先生がメッセージをしてくださいました。
手作りの地図で、たくさん説明してくれました。地図見やすかったし、メッセージもわかりやすかったです。
詳細はとある事情で割愛しちゃいます、ごめんなさい・・

そして、その協力牧師先生の奥様と、益子キリスト福音館の若い姉妹が、それぞれ信仰の証をしてくれました。
みなさん、いろいろありますね。どうやって信仰に導かれたのかとか、今までの自分の罪だとか、人それぞれストーリーがあるんだなと思いました。

そして、礼拝が終わったら、次は、お食事会です。たくさんの料理が並び、本当に楽しかったです。
ぶぅの家はみかんと手作りケーキを持っていきました?
好評でよかった!!
あとは、ちらしずしだったり、お赤飯だったり、お肉だったり、サラダだったり。
お菓子類が多かったかな。どれもおいしかったです。みなさん、ありがとうございました。

ごはん食べ終わった後は、〇[×]ゲーム。
ぶぅは早々に離脱しましたが(笑)、問題が簡単だったのか、問題が尽きてもまだ人数がたくさんいて、結局、じゃんけんで勝者三人が景品をもらうことができました。

そのあとは、ぶぅとぶぅの姪っ子ちゃんと、教会の姉妹二人の四人でサインダンス「愛の絆」を踊りました。
やりきりました。頑張りました。力いっぱい踊らせていただきました。
姪っ子ちゃんが可愛くてね、上手だし、姉妹二人もすばらしいダンスを披露してくれました。
よかったね。神様も喜んでくれたよ、きっと!!

その後は、ぶぅの姉と眞琴先生で、「イエスは愛で満たす」
姉上がピアノで眞琴先生がカホンで素晴らしい演奏でした。
本当は、黒田家の三男さんと四男さんが、ギターとベースで加わってくださるはずだったのですが、なんと風邪でお休みでした。
てことで、急きょ、ピアノとカホン+みなさんで賛美しました。
いい時間だったなぁ。
姉上、眞琴先生ありがとうございました。

楽しかったクリスマス会、終わってしまいましたが、これからもまた、合同で礼拝を捧げることができればいいな。
今度は、鹿沼も一緒にできると楽しそうですね。
てことで、超特急でまとめちゃいましたが、ここで失礼しようとおもいます^^

では、みなさん、お元気でー。
神さまの祝福がみなさまにたくさんたくさんありますように!!

天国の時間 [3分間メッセージ]

みなさま、こばにちは、ぶぅでございます。
遅くなりましたが、あけましておめでとうございます!!
今年もよろしくお願いします。
今年は、皆様にとってどんな年になるかな。
ぶぅの今年の目標は、もっとたくさん聖書を読むです。
いま、ぶぅは、リビングバイブルで読んでいるのですが、普通の聖書でも読めるようになりたいです。
あと、車の駐車もうまくできるようになりたい!!
やりたいこともいっぱいあるので、昨年がぶぅにとって飛躍の年だったと同様に、今年も羽ばたいていきたいと思っております。はい。
いやぁ、なんか最近真面目だなぁ。ぶぅも成長しました。

一日の元旦礼拝は、「教会形成と伝道のビジョンを求める」でした。
チャペルタイムは無しで、パワーポインタを使って黒田明先生がメッセージをしてくださいました。てことで、今回は3分間メッセージです。
ちなみに、この日、ぶぅの親友、とみーが遠くから、来てくれました!!
いや、本当に遠いのよ、半日がかりで、電車乗り継いできてくれました。
とみー、ありがとう♡
メッセージ入ります。要約は無しです。

天国の時間
いかがお過ごしでしょうか。今回は、「天国の時間」と題してお話をいたします。
「楽しい時間は早く過ぎ、いやな時間はゆっくり過ぎる」。これは誰もが経験していることではないでしょうか。嫌いな授業やイヤな仕事の時間はなかなか終わらないのに、昼休みの時間はあっというまに終ってしまうのです。退屈な時間ほど長く感じるものですが、恋人とのデートの日となると日が暮れるのが何と早いことでしょう。
さて、この不思議な「時間の長さの違い」というものを、とことんまで突き詰めていくと、実は時間がなくなってしまうのだと、言った人がいます。実際に、最高に楽しい時間はあっというまに過ぎて行く。24時間がまるでたった一秒であるかのように、それほど時間を忘れて夢中になれる。こんな環境の中にいる人にとっては、百年も千年も本人にとっては一秒に過ぎない。つまり時間が止まってしまう。それが天国の状態だというわけです。
逆にいやでいやでしょうがない時間、肉体的な苦しみ、精神的な苦しみ、どうしても我慢ができない場所と空間、この中にいるといつまでたっても時間が進みません。つまり、時間が止まって、苦しみは永遠に続く。これが地獄です。
ところで、時間というのは神さまが天地創造によってこの世界を始められたとき、最初に造られたものです。神様は時間という枠組みをまず決められ、その中で歴史を始められました。始まったものには必ず終わりがあるはずです。聖書は次のように言っています。「時が満ちるに及んで、…あらゆるものが、キリストのもとに一つにまとめられます。」(エペソ1:10)神さまが始められた時間。これはいつまでも続くものではなく、満ちるときがあるのです。キリストがもう一度来られてこの世界が終わるとき、時間そのものが消滅するのです。その後に始まるものは、もう私たち人間の理解を超えたものですから、誰も説明することなどできません。
でも、はっきりとわかっていることがあります。それはやがて天国で私たちは救い主イエス・キリストとお会いすることができ、これ以上のうれしさ、これ以上の喜びはなく、今私たちが経験している時の流れという時間など、とっくに止まってしまっているということです。

以上になります。また来週~。
父なる神と私たちの主なるキリスト・イエスから、恵みとあわれみと平安とがありますように。

今週の聖歌♪ 新聖歌423
御神の御殿よ われ深く愛す
いざ行きて主を拝せん 在りし日の心もて

救い主の誕生 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは、ぶぅです。
あと数日でクリスマスですね。
早いです。
最近、自分の罪深さ、弱さを感じることが多いです。
こんな弱く、すぐつまづく私のために、神様が愛する御子を送ってくださったんだなぁって思うと、ぶぅは、切なくなります。裏切られるとわかっていたイエス様、十字架で死ななければならないと知っていたイエス様、それでも父なる神様の御心に身をゆだねたイエス様。
今年のクリスマスは、ちょうど日曜日です。
ぶぅは、イエス様に心を定めて過ごしたいと思っています。

そして、お知らせ!!
黒田眞琴先生が、正教師任用試験に合格されました。おめでとうございます。
眞琴先生は、益子の教会で牧師をしたいと言ってくださいました♡承認されれば、来年度から来てくださると思います。
goukaku.jpg

では、要約入ります。今回は眞琴先生です。ありがとうございます。
聖書箇所=ルカの福音書2:1~20
説教題=救い主の誕生
中心聖句=きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。(ルカ2:11~12)

クリスマスストーリーは、夜のお話が多いように思います。星を目指す博士も、野宿する羊飼いたちも、イエス様の誕生も、またヘロデからの逃避行も夜の物語です。夜には暗さや恐れ、不安がつきまといます。けれどもそんな闇に輝く光の御子の姿が闇の深さゆえに際立つとも言えるのかもしれません。
本日の聖書箇所に入りたいと思います。
読んだのは、12節までですが、今日は20節まで見ていきたいと思います。
ここには、世界で一番最初のクリスマスについての記事があります。
1~7節には「イエス様の降誕」8~20節には「羊飼いたちの礼拝」について記されています。
1節。新約聖書の時代は「ローマの平和」と言われ、ローマ帝国による強力な支配を背景とした政治的・軍事的均衡の保たれた時期でした。圧倒的な軍事力で広大な支配地を治めていたローマ帝国はできるだけ平和に植民国を支配し、植民地の力を徐々にそぐ政策をとっていたようです。
ローマ帝国が行った政策の一つに、「人口調査」があり、それは支配国の現状把握と税収の確立、また国民にローマの支配を浸透させるなどの目的で、14年おきに行っていました。
ユダヤの男性は、この目的のために、自分の名前、職業、財産、家族を登録するために故郷に戻らなければなりませんでした。神は聖書の預言(ミカ5:2)の成就のために皇帝アウグストの勅令を用いて、イエスの家族をナザレからベツレヘムへの120kmの旅に導かれました。
4節の「ベツレヘム」はラケル、ルツ、ダビデなど、ユダヤ人にとっては歴史的エピソードの多い町で、へブル語では「パンの家」を意味しますが、ここで、まさに「いのちのパン(ヨハネ6:35)」であるイエスが降誕したのです。

7節の「飼葉おけ」と訳されているギリシャ語は、ルカ13:15では「小屋」と訳されています。このような貧しさの中にキリストが生まれてくださったところにキリスト謙卑があります。キリストをこのような貧しさの中に生まれさせてくださったところに、神の万人に対する深い愛が示されています。

8節、羊の群れを見守り、野宿をしていた羊飼いのもとに、御使いが現れました。御使いは喜びの知らせを告げにきたのです。そして天の軍勢のコーラスが続きます。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
人々が神に栄光があることを認めるように、そして、神の御子が担う地に平和をもたらす使命が達成されるようにと、御使いたちは賛美したのです。キリストの使命、それはご自身の十字架の死によって私たちが神と和解し、この地において、私たちが神と共に平和に生きることです。死ぬためにお生まれになった方、これが私たちの救い主のお姿なのです。

イエス降誕の知らせは、まず羊飼いたちに対してなされました。祭司でも律法学者に対してでもありませんでした。彼らは、イスラエルの社会から疎外され、認められないような最も貧しい人々でした。彼らには法廷で証言する権利も赦されていなかったのです。けれども、神はそんな彼らを、預言が成就してメシヤが生まれたということの最初の証人としてくださったのです。
現在のキリスト教の教理などからすると、イエス・キリストがどのようなお方であるかについての彼らの理解は不十分だったでしょう。けれども真の神礼拝は、神の働きかけに真摯に応えることから始まるのです。

私たちも信仰をもって求めるなら、神のことばの真実を知る恵みの中にあります。神は、まさに魂の平和をもたらす方を送ってくださいました。しかも、世間的には見向きもされないような人たちに、真っ先にその恵みが伝えられたのです。羊飼いたちの心は、信仰と賛美にあふれたことでしょう。喜びが満ちたことでしょう。私たちを見る神の目は、このような目、私たちを「高価で貴い」と見たくださる目です。世間の評価がどのようであったとしても、また、自分でも自分の価値が見いだせないときでさえ、神の私たちを見る目を常に感じつつ歩みたいと思います。信仰と賛美と喜びが伴う歩みが私たちには約束されているのです。

クリスマスとは、天地創造の神が、被造物としてお生まれになるという不思議な出来事が起こった日です。全能の神が無力な赤ちゃんとして生まれた、「ことば」と称される方(ヨハネ1:1)がことばを話せない赤ちゃんとなって生まれてくださった日です。
その上で、主イエスの誕生は、私たちの救いの道を完成させる神のご計画の実現のときでもあったことを確認する必要があります。そして、その神が私たちを救うためになさったことは、「ご自分を無にし(ピリピ2:7)」のことばに要約されます。
神が私たちへの愛のゆえに、天の栄光の高さから、私たちの卑しい地に下りてこられたという不思議と神の深いへりくだりを思わせていただくとき、私たちの中にもへりくだりが生まれます。私たちもキリストのへりくだりに倣いたいと願います。そして、そんなにも愛してくださる神に心からの礼拝をおささげしたいと思います。

以上です。

マリヤは言った。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主は、この卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も私を幸せ者と思うでしょう。」(ルカ1:46~48)

今週の聖歌♪ 新聖歌91
「それかみは、そのひとりごをたもうほどに 世を愛したまえり」

マリヤとヨセフへの御告げ [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは、ぶぅです。
ぶぅめずらしく風邪をひきまして(何年振りだろう)、一週間ぐらい家に引きこもってました。
今年の風邪は、咳がひどいらしいですね。
ぶぅも大変でした。今のところ、鼻水だけになりましたが。
みなさんんも、気を付けて!!

てことで、今日はすんなり要約に入ります。
今回は黒田明先生です。ありがとうございます。

聖書箇所=ルカの福音書1:26~38
     マタイの福音書1:18~25
説教題=マリヤとヨセフへの御告げ
中心聖句=あなたのおことばどおりこの身になりますように。(ルカ1:38)

きょうは聖書を二か所読んでいただきました。ルカの福音書では御使いガブリエルからの突然の受胎告知に戸惑うマリヤのことが取り上げられており、マタイの福音書ではそんなマリヤの姦淫を疑って悩むヨセフのことが取り上げられておりました。
今回は婚約中のこのふたりの人物を取り上げてみたいと思います。

まずは、マリヤについて。最初にわかるのは、その出身地が「ガリラヤのナザレという町であった」ということです。ご承知の通り、ナザレという町は今日の私たちにとってはあまりにも有名ですが、聖書辞典などで調べてみると、当時ナザレはそれほど有名ではなかったようです。
そして、マリヤの賛歌(マグニフィカト)からの推測ですが、豊かな家の出ではなかったと思われます。
さて、聖書の話になりますが、ある日、御使いガブリエルがマリヤのところに来ました。そして「お
めでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」とあいさつしたのです。
御使いは話続けます。30節と31節。そしてそのあとに続く「その子は神の子と呼ばれ、また救い主として神の民を永遠に治める」との御告げを聞いたとき、これはメシヤ預言の成就のことに違いない、自分の身に宿るイエスという名の男の子が待望の救い主となるということが、彼女にもわかったのではないでしょうか。しかし、マリヤの戸惑いは大きかったに違いありません。
ところが彼女を見ていくと、すぐさま神のみこころに従いました。マリヤはこれを神様の御計画として信仰をもって受け入れ、応答したのです。

次にヨセフについてみていきたいと思います。
マタイの福音書によると、ヨセフはマリヤの妊娠を聞いて、非常に悩みました。
というのも、自分としては全く身に覚えのないことであったからです。「聖霊によって身ごもったのです」と彼女から言われても、それを何によって証明することができるでしょうか。彼女の言葉をただ信じるしかないのです。
当時のイスラエルは婚約中の不貞行為は石打ちの刑に処せられることになっていました。
ヨセフはそのことでも悩み、苦しみました。ヨセフが選択する道は二つに一つ。律法に従い彼女を石打ちの刑にするか、もう一つは離縁状を書いて彼女を立ちさらせるか。ところが、ヨセフにとって考えてもみなかった第三の道が主の御使いによって示されました。
それは、マリヤが聖霊によって身ごもったこと。その子イエスは約束された救い主であるということを信じ、受け入れるという道です。ただしそれを信じ、受け入れるからには、人々から非難され、誤解されることがあるかもしれないことを覚悟しなければなりませんでしたが、ヨセフはこの第三の道を選びました。たとえ困難があろうとも、マリヤと共に神様のみこころのとおりに生きていくという信仰の道を彼は選択したのです。
では、私たちはどうでしょうか。このヨセフのように、たとえ困難があろうとも、神様のみこころならば従っていくという思いが私たちにあるでしょうか。それとも困難はなるべく避けたいので、できるだけ楽な道を選んでいきたいと、思うでしょうか。
確かに、「欲・得・楽」という道を選んで生きていくのも一つの人生かもしれません。
でも、私たちクリスチャンの心がけとしては、神さまのみこころならば、どこまでも従っていく、たとえ困難があっても、それに従っていく、そんな主との関係を常に持っていたいですね。
みことばを二つ読んで終わりにします。

①ローマ8:35~39 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか。苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

②ピリピ1:29 あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。

以上になります。
それでは、みなさん、ごきげんよう!!
主よ。御力のゆえに、あなたがあがめられますように。私たちは歌い、あなたの威力をほめ歌います。詩篇21:13

今週の聖歌♪ 新聖歌394
汝が旨の成るとき 他の人は見るべし
わが内に在す君 キリストの姿を

たくましいイエスさま [3分間メッセージ]

みなさま、こばにちは。ぶぅです。
もうすぐ、クリスマスですね。
なんて早いんでしょう。
今年は、ぶぅにとって飛躍年でした。
いろいろ性格も変わりました。益子の教会で、心から神様に委ねることを学びました。
素の自分が許されることを知りました。イエス様が、そばにいてくださることを感じました。
何年かぶりに風邪もひきました。神様、ありがとう。
クリスマス、みなさんは、どう過ごされるでしょうか。
神さまが、みなさまの真ん中にいてくださりますように。
おっと、めずらしく、まじめだ。

そして遅くなってしまって申し訳ないのですが、先週の日曜日は、協力牧師先生が、メッセージをしてくださいました。
協力牧師先生は、今年いっぱいで益子教会を離れて(?)しまいます。
完全に会わなくなるわけではないと思いますが、メッセージをしてくださるのが、今年いっぱい
なので、寂しいです。
先週から「家族」をテーマにメッセージを取り次いでくださっています。
ファミリータイムの重要性、人間関係の築き方の提供など、わかりやすい資料付きでお話してくださいました。

というわけで、今回は黒田明先生の3分間メッセージです。
題名は「たくましいイエスさま」要約なしです。

いかがお過ごしでしょうか。今回は、「たくましいイエスさま」と題してお話をいたします。
イエス・キリストの肖像画を見ると、たいていは西洋人の顔をしていて、金髪になっています。しかし、そもそもイエス・キリストはセム系のユダヤ人でしたから、アジア人の顔をしていて、髪の毛は黒色をしていたのではないでしょうか。それに、小さいときから大工として肉体労働に明け暮れ、また伝道活動に入られてからは、毎日亜熱帯地方のパレスチナ地方を歩き回られたわけですから、きっと日に焼けた顔つきとたくましい体つきだったのではないでしょうか。
ところで、ある日のことになりますが、エルサレムの神殿に設置されていた屋台をイエスさまがひっくりかえして暴れたという記事が聖書に出てきます。では、イエスさまはなぜそのようなことをなさったのかというと、神聖なはずの神さまの神殿が神聖ならざることに日常茶飯事のように使われるようになってしまったからです。この頃、外国の通貨を賽銭用のお金に替える両替商やハトやヒツジなどの犠牲動物を売る商人たちが、わが物顔で、神殿を利用していました。彼らは異邦人たちが静かに祈る場所として確保してあったその所で、巡礼者たちを相手に悪どいボロ稼ぎをしていたのです。さらには神殿の祭司たちも、これらの商売人たちを取り締まる利権の上にあぐらをかいてしまっていたのです。
こういうことですから、イエスさまは彼らにこう言って抗議なさいました。「『私の家は祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなた方はそれを強盗の巣にしている」(マタイ21:13)
なお、人一倍正義感が強くてたくましいイエスさまではありましたが、人間の弱さに同情できないようなお方ではありませんでした。イエスさまは常に弱い者の側に立ち、彼らの友となられたのです。
聖書のことば。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。」(へブル4:15)

先週の聖歌 新聖歌208
「イエスは愛で満たす 聖霊で満たす」

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。(ヨハネ手紙Ⅰ4:19)