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天に昇られたイエス(4/30) [チャペルタイム]

みなさま、本日二度目登場のぶぅでございます。
今日で、益子は陶器市が終わります。
毎回毎回、すごい賑わいです。益子の道の駅も人が多くて、屋台がでてました。
道の駅のアイスおいしいよ。
ぶぅの点字仲間の方も、陶器市に出しているということで、一度覗いてみたい気がするのだが、あの賑わいの中を歩く勇気が出ないという。
怖いじゃん!!ぶぅは運動神経が悪いから、人ごみ行くと、ぶつかりまくるのだ!!
よけられないのだよ。てことで悲しいのでちゃぺりたいと思います。
てかね真琴先生のチャペルタイムはいつも、6ページくらいあったのだけど、今回から、2枚で収まってるんです。でもね文字が小さいの(笑)なんだか、可愛らしいのよねー、真琴先生って。

聖書箇所=使徒の働き1:3~14
説教題=天に昇られたイエス
中心聖句=しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)

今回までの主題「十字架と復活」の最後の学びとして、「天に昇られたイエス」について学びます。
イエスの昇天が私たちクリスチャンにとってどのような意味があるか見ていきたいと思います。
本日の聖書箇所には3~5節に「大宣教命令」6~11節には「復活の証人となる」ことが、そして12~14節には「心を合わせて祈る弟子たち」の姿が記されています。
「大宣教命令」はマタイ28:18~20、マルコ16:15,16、ルカ24:46~48にも記されているイエスの弟子たちへの宣教命令です。使徒の働きの冒頭は、著者を同じくするルカの福音書の最後と重なっていて、宣教の派遣と主イエスの昇天が改めて記されています。特にここで気が付くことは、マタイ、マルコには書かれていなかったイエスの御命令があるということです。それが待機の命令でした。(ルカ24:49)、(使徒1:4)待機の命令の重要さは、後の教会における聖霊の働きの現実から、私たちは、その恵みをしることができるのです。
人は「いつ」や「どのような」にこだわるものです。いつこの人は救われるのか、いつ教会は成長するのか、どのような組織がいいのか、どのような方法でなのかなど。それに対するすべての答えが使徒1:8の派遣のことばです。それは「聖霊が臨まれるとき」なのです。すべての答えは聖霊の働きにあります。

イエスの昇天を目撃した弟子たちには祈ることが必要でした。彼らはあまりにも忙しく、立ち止まることすらできない中にありました。イエスご自身がされていたように、彼らにも、私たちにも、主の働きを続けるため立ち止まり祈る時が必要です。
イエスの昇天によって、弟子たちには希望が与えられました。そして、彼らは「待ち望む信仰」を持つようになったのです。彼らは二つのことを待ち望みました。一つは聖霊が与えられることです。
聖霊が与えられるとは、目に見える形ではなく、もっと親しい方として、もっと近く、心の中に入ってくださるということです。それは「インマヌエル」「神が共におられる」恵みを表しています。
もう一つは、イエスがもう一度地上に来られる「再臨」を待ち望む信仰です。イエスは弟子たちの目の前で、天に帰って行かれました。これは弟子たち一人ひとりにとって、再臨が必ず起こる事実として心に届くためでした。このような「再臨」を待ち望む希望が、弟子たちが困難な中でも信仰を持って歩む支えとなったのです。私たちも日々の様々な困難、問題の中で生きています。イエスが来られる時、かならず正しい裁きをしてくださる、フェアな正しい判定があるという信仰が私たちを支える大きな力になります。

イエスがこの地上に来てくださったことを「受肉」といいます。神であった方がこの地上に下ってこられ、私たち人間と同じ肉体をもって生きる者となってくださったのです。これこそ、キリスト教の中心です。これほどまでも私たちは神に愛されているのです。万能の神、無限の力をお持ちの神が有限の時間や空間に左右される立場になってくださったのです、それは、すべて、私たちのためでした。
またイエスが復活された時のからだは復活のからだでした。ドアを通り抜けたり、エマオの途上では
急に見えなくなったりしました。そして、天に帰っていかれたのです。イエスが天に帰られ、今度は聖霊が私たちと共にいてくださる恵みの時代が来ました。今まで時間、空間に縛られていたイエスがそれらから自由にされたのです。イエスが自由に働かれる恵みの時代です。
天において、私たちのためにとりなしの業をしてくださるイエスは、今も「人」として私たちの痛みも困難もすべてわかってくださるお方です。そのお方が私たちのために聖霊を送ってくださり、共にいてくださる恵み。そして聖霊はイエスご自身でもありますから、いつも一緒にいてくださるインマヌエルの神なのです。

弟子たちにとってイエスの昇天とは、「聖霊を待ち望む」「再臨を待ち望む」信仰をいただくために、どうしても必要なことでした。すでに聖霊が与えられている、今を生きる私たちにとって、主の復活の証人として生きることが望まれています。いいえ、すでに、みことばの約束があります。「私たちは証人」なのです。
私たちはいつでも、「私のための十字架の死と復活」を確信しましょう。私たちは、すでにいただいている聖霊に助けられながら、聖霊の満たしを求めましょう。そして、日々再臨を待ち望みながら、イエスの証人として、神の家族のお互いと共に祈りつつ過ごしましょう。
私たちはこれらをキリストの名によって求め、この世にあって地の塩、世の光としてその務めに励んでいきたいと思います。私たちの内に住まわれる聖霊が、必ずこれらのことをなさせてくださいます。

以上になります。神様の祝福と愛が皆様の上にあることを感謝します。

今回の聖歌♪ 新聖歌429
「地の塵に等しかり 何一つ取り得なし
今あるはただ主の 愛に生くるわれぞ
御救いを受けし 罪人に過ぎず
されどわれ人に伝えん 恵み深きイエスを」

エマオへの道で(4/23) [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。ぶぅです。
今日は、日曜日ですね。
今日から、新しい教会プログラムが発動します。
司会、感謝祈祷に加えて、新しく、聖書朗読や教会学校、受付、聖餐準備など、それぞれ役割を担う感じで、やっていきます。あ、あれ?第五週だったかな。。。
ファミリー礼拝というものもスタートします。いつだったかは忘れました♡
てことで、チャペルタイム要約です!!

聖書箇所=ルカの福音書24:13~35
説教題=エマオへの道で
中心聖句=「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」(ルカ24:31)

私たちはいま、「十字架と復活」という主題をいただき、「主イエスの十字架による救いと復活を信じる」という目標のもと、聖書からの学びを続けています。
福音書を比較しますと、それぞれ、独自の視点から主イエスの復活の出来事を記していることに気づきます。また、用いられるエピソードも少しずつ違っていますので、復活当日とその後の40日間の出来事を正確に辿ってみようとすると、大変な作業になります。
今回は、主イエスの復活に関して、ルカの福音書からエマオに向かう弟子たちの記事を取り上げます。この聖書から、私たちは、教会において、主イエスを深く知り、また主イエスを深く覚えるため、私たちの信仰をつよくするために大事なことを学びたいと思います。

第1に、「聖書に親しむこと」第2に「主の聖餐を重んじること」第3に「復活の主イエスとの個人的出会いを分かち合うこと、つまり復活の主を証しすること」です。
今日の聖書箇所を見ていきます。
13~24節には「私たちと共に歩んでくださる主」のお姿をみることができます。
13節の最初に「ちょうどこの日」とあります。これは、「主イエスがよみがえられた日」十字架の出来事から3日目の日曜日の午後のことです。その日エルサレムから11キロ離れたエマオという村に向かう二人の弟子がいました。二人の弟子は主イエスを失った悲しみと失望、さらにはそのイエスが復活したとのうわさに対する戸惑いがあったことが想像できます。
道々、主イエスの復活の出来事について話し合い、また論じ合っていた二人に、復活のイエスご自身が近づいて、共に歩んでくださったのです。私たちの主は、人生の様々な場面で私たちと共に歩んでくださるお方です。

次に25~31節には、「目を開いてくださるイエス」の姿を見ることができます。
27節には、イエスが霊的真理へと弟子たちを導くために、最初に聖書のみことばを用いて、ご自身がメシヤ(救い主)であることを彼らに解き明かされました。3年半の弟子たちとの生活で、いつでもイエスはこのように語られ、教えられたのだと思います。主はなおも先に行く様子をお見せになりましたが、これはたぶん弟子たちが自分たちから主のことばを求めるようにとのチャレンジであったと考えられます。弟子たちはイエスを引き留め、主に宿泊し、共に過ごすことを求めました。30節には、今度はパン裂き(聖餐式)が用いられたことが記されています。食卓の席でイエスはパンをとって祝福して裂き、彼らに渡されました。この二人の弟子たちは最後の晩餐の席にはいなかったと思うのですが、イエスと共に過ごした彼らにとっては見慣れた光景であったと思うのです。
イエスは、このように目に見える恵みの手段をも用い、ご自身がメシヤであり、その救いが、確かなものであることをわからせてくださったのです。
最後に、32~35節をご覧ください。ここには「引き返す弟子たちの姿」があります。急に見えなくなったイエスに驚きながらも、彼らは互いに心が燃えていたことを分かち合います。33節には「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻って」とあります。彼らは宿泊することもやめて、燃える心を抑えられず、「すぐさま」行動を起こすのです。

主イエスはそれぞれの弟子の必要に応じて近づいてくださる方です。様々な理由により弟子たちの集まりから離れてしまった弟子たちに、他の弟子たちと共に復活の主にお会いできずに信じることができなかったトマスに、主は一人ひとりをそのまま受け入れ、ふさわしい方法で導いてくださいました。私たちにも同じ愛をもって日々導いてくださっています。この主と同じ心で、互いに愛し合い、祈り合い、支え合う神の家族でありたいと思います。

以上になります。
みなさまのうえに、神さまの愛が、たくさん降り注ぎますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌251
「主イエスの御許に 慰めあり
憂いも悩みも 消え去るべし
贖い主よ われをそこに
かくまい給え 御恵もて」

復活の主(礼拝日4/16) [チャペルタイム]

みなさん、おくれすぎましたが、こばにちは。
ぶぅでございます。
GWですね。どっか行った?
ぶぅは、3日の日に、井頭公園のボート乗り場でスマホ落としました。
池汚いのね。落ちたスマホ見えなくて、拾えなかったので、機種変しました↓↓
スマホなくしたの、今年に入って二回目です。ぶぅに、連絡がつかないって人がいたら、ごめんなさい。
反省しまーす。。。
てことで、チャペルタイム要約入ります。

聖書箇所=ヨハネの福音書20:1~23
説教題=復活の主
中心聖句=私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。

イースターおめでとうございます。キリストは私たちの罪のために死なれました。そして、私たちを義とするためによみがえってくださったのです。イースターの聖書箇所は、四福音書の最後にあるヨハネの福音書20章です。
きょう、私たちは聖書から二つのことを学びたいと思います。
一つ目は、私たちのために。罪の贖いとして、十字架の上で死んでくださり、死に打ち勝って復活された主は、今も生きておられるということです。そして二つ目は、主の十字架の贖いによって新しいいのちをいただいた私たちは、このイエスを信じる信仰こそが永遠のいのちへの道であるということを伝える者とされているということです。

誰にも必ず訪れる「死」という問題に対して、私たちは本当に心の準備ができていると言えるでしょうか。私が卒業した神学校で、よく言われてきたことがあります。それは「説教」と「引っ越し」と「死ぬこと」の3つの準備についてです。
1つ目は『語る準備、つまりいつでも召された者として福音を伝える、説教する準備』です。二つ目は「引っ越しの準備、つまり、遣わされたら、いつでも、どこにでも、主がお入用なのですと言われた場所に即座に従い、出て行く準備』です。そして最後は『死ぬ準備、つまり、主に召された働きのために殉教する覚悟で働く準備』です。この3つの備えは、地上の私たちのいのちの最期を思い、物も人間関係も整理して、過ごすことにも通じているようにも思えるのです。

信仰においても、私たちのなすべきことは、第一のことを第一にして、神からのみ豊かな恵みをいただく決心をすることだと思います。
十字架で死んでくださったキリストによって罪を贖われた私たちは、もう「しなければならないという」律法から解放され、自由にされています。そして、こんなにも愛してくださる神からの恵みに感謝して、「神のために生きたい、神のお役にたちたい」と考える、恵みに生きる者とされているのです。
病院の病室に「4」という番号がないことからもわかるとおり、人間は死という現実から目を背けたい、考えたくないと思っています。けれども、「生、けれどもいずれは死ぬ者」という人生の基本図式から逃れられる人はひとりもいないのです。
ところが、そんな私たちのために愛の神が救い主イエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。私たちの身代わりとしてのキリストの十字架の死と神によるキリストの復活とが「死、けれども最後は勝利」「死、けれども最後は永遠のいのち」という新しい人生図式をくれたのです。
つまり、イエス・キリストを信じる者にとって、もう、死は恐ろしいものでも、敗北でもなくなるのです。死は栄光の輝きに満ちた主にお会いできる時となります。その上、キリスト者には、すでに主を信じて召された愛する者たちと、やがて天国で再会できるという希望が与えられているのです。

安息日の翌日の明け方、ペテロとヨハネはからっぽの墓を「見て、信じた」(8節)のです。ただし、彼らは聖書のことばを十分理解していなかったとあります。マグダラのマリヤはからっぽの墓を見て、泣いていて、近くにいてくださったイエスのことさえわからないでいました。イエスはわからなかったマリヤを責めることはされませんでした。かえって、優しく名前を呼んでくださったのです。(16節)そして、その日の夕方、よみがえられた主は、弟子たちに「平安があなたがたにあるように」(19節)と言われ、「弟子たちは、主を見て、喜んだ」(20節)のです。
続いて、イエスは、もう一度彼らに言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21節)。
弟子たちを平安の祈りと共に派遣された主は、私たちをもそれぞれの家庭や職場や学校、地域に、親族に、友人知人のところに遣わしてくださる主です。そのために、聖霊による助けをいただくようにとも教えられます。(22節)復活の主の恵みを人々に語るのは、贖われた私たちの使命ですが、私たち人間だけの力ではできない、大きな働きなのです。聖霊の助けなしには人は救われないからです。イースターを迎えた私たちは、きょう、復活にこそ、真の希望と力があるということ、そして、主を常に仰ぎ見る信仰こそが、喜びあふれる平安な信仰生活の秘訣であることを覚えたいと思います。

以上になります。
みなさまの上に、神さまの豊かな祝福がありますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌127番
「陰府(よみ)より帰り 死と悪魔に勝ちし 君こそ勝利の主なれ 君こそ真(まこと)の主なれ
ほめよイエスを われらの神を」

十字架上の祈り(礼拝日4/9) [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは、ぶぅでございます。
やっとチャペルタイム要約、追いつきました!!
今回から、週報に真琴先生によるミニコラムが始まりました。
そこもこのブログに載せていこうとおもいます。
ただ、チャペルタイム+ミニコラムを載せると結構な長さになってしまうので、ミニコラムのほうは、一か月分溜まってからまとめて載せようと思います。
忘れてたら言って←
お味噌汁
そだ、黒田明先生が月一回メッセージしてくださるって言いましたっけ?
どうだったかな。今回のメッセージは明先生です!!
ありがとうございます。早速、要約入ります。

聖書箇所=ルカの福音書23:32~46
説教題=十字架上の祈り
中心聖句=そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(Ⅰペテロ2:24)

ゲツセマネの園で祈り、父なる神のみこころに従う決意を固められたイエスさま、十字架に張り付けられる日がいよいよやってきました。場所はエルサレム城壁の外にあるゴルゴタの丘です。
イエスさまは、前の日の夜に不当な裁判を受け、十字架の刑が決まると何度もむちで打たれ、その日の朝になると弱り切ったからだに荒削りの杭を負わされ、刑場に続く役800メートルの曲がりくねった道を歩かされ、ゴルゴタの丘につくと、まずは地面に置かれた十字架の上に寝かされ、次には手と足に太い釘が打ちつけられ、こうして十字架はたてられていったのです。

イエスさまが、十字架に張り付けられたとき、そこには「大勢の民衆」がいました。また「ユダヤ人指導者たちと兵士たち」がいました。彼らはイエスさまのことをあざ笑い、「他人は救えても、自分は救えないのか」などと罵倒していました。
さらに「イエスさまと共に十字架につけられたふたりの犯罪人」もいました。
イエスさまの十字架を巡ってたくさんの人たちがいました。では、十字架上のイエスさまはどうだったのかというと、皆様も想像してみてください。
鞭で打たれ、傷だらけの弱り切った肉体、両手両足にくぎを打ち込まれるときの鋭い痛み、くぎの傷穴にからだの重みがかかることによって生じる激しい痛み、出血のための貧血、あるいはのどの渇き。そういった肉体的苦痛が数時間にも及んだのです。
十字架というのは、人々へのみせしめのために行われる刑罰です。その精神的苦痛も並大抵のものではなかったはずです。
さらにイエスさまの場合、最愛の父であられる神との親しい交わりがこれによって絶たれてしまうわけですから、その霊的苦痛もどれほどのものだったか。

ところが、こういった激しい肉体的・精神的・霊的苦痛の中にありながらも、イエスさまは十字架上でこのように祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。(34節)」
そこにはイエスさまに対して徹底的に反感をもつ者がいました。自分には何の関係もないと思っている傍観者もいました。またイエスさまの十字架の右と左には、犯罪人もいました。
イエスさまは、「これら全部の人々を赦してあげてください」と祈られたのです。
イエス様はご自分に反感をもつすべての人のために、さらには実際に犯罪を犯してしまった人々のためにも赦しの祈りをささげられたのです。

イエスさまの十字架を巡るこれらの人々の姿は、私たちと決して無関係ではありません。なぜなら、イエスさまに対して徹底的に反感を持っている人やイエスさまの十字架は過去のことであって、今の自分とは何の関係もないと思っている多くの傍観者が今もいるからです。

最後にイエスさまはなぜ十字架につけられ、苦しい目にあわなければならなかったのかということを、もう一度みなさんと考えてみたいと思います。
それはすべてが私たちのためでした。私たちが神から離れ、自分勝手な道に歩み、罪を犯し続けてきたことへの神からの刑罰、イエスさまがそれを私たちのために、私たちに代わって受けてくださったのです。
今日のところの教訓といえることは、どんな罪人でさえ、謙虚に自らの罪を認め、イエスさまを受けいれるならば救われるとの実例を十字㋤上の犯罪人の1人からみることができるというところです。
願わくはイエスさまのこの十字架の苦しみが、当時の人々のためだったということだけにとどまらず、時間を超え、空間を超え、この私たちのためでもあったということが霊的に開眼され、救いの道があなたにも私にも開かれているということをはっきりとわからせていただきたいと思います。

以上になります。今日はイースターですね。
それぞれの場所で、感謝をささげましょう。

今回の聖歌♪ 新聖歌112
「カルバリ山の 十字架に付きて イエスは尊き 血潮を流し
救いの道を 開き給えり カルバリの十字架 わがためなり」

不当な裁判 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。ぶぅでございます。
今日は、受難週の木曜日。この前、学びましたが、最後の晩餐、洗足、ゲツセマネの祈り、逮捕の日です。
すみません、ぶぅは、今日、真琴先生に言われるまで忘れてました↓↓
師であるイエスさまが、弟子たちの足を洗ってくださった。ここで、聖句を一つ入れたいとおもいます。
「だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」ルカ22:26
いつも謙虚な気持ちで、自分の行為が正しい、自分の考えが正しい、自分はこの人よりも秀でているなどと、人と比べたり、自分の行動や言動を自分の力でやったと思わずに、感謝をもっていきたいですね。
はい、ぶぅは、何を言おうとしたか忘れたので、チャペルタイム要約入ります←
真琴先生です。ありがとうございます。

聖書箇所=ヨハネの福音書18:19~24 18:28~19:16
説教題=不当な裁判
中心聖句=キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しい方にお任せになりました。(Ⅰペテロ2:22~23)

毎年、レントを迎え、私たちは、十字架の道を歩まれる神の御子、イエス・キリストのお姿を学びます。そして、そのご自分のひとり子であられるイエスさまを私たちの贖いとされるため、十字架の上で死なれることを選ばれた父なる神のご愛に感謝します。
あなたの試練は、あなたの知らない所で、神の家族や誰かにとっての恵みとなっています。そして、神に愛されるあなたにとって、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出」し、「この希望は失望に終わることがありません」と異邦人への伝道者パウロがローマ5:3.4で語っています。なぜなら、私たちは「信仰によって義と認められ」ており、「神との平和を持ってい」る者であるからです。また、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから」なのです。

ゲツセマネでの祈りの後、逮捕されたイエスさまに対する裁判について学びます。その裁判は、ユダヤ側の裁判3回、ローマ側の裁判3回の合計6回もの裁判が深夜から翌日の午前にかけて行われました。このことはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書の記事からわかります。
Ⅰ.ユダヤ最高議会(サンヘドリン)による裁判
①大祭司カヤパのしゅうとアンナスによる非公式審問(ヨハネ18:12~24)
②大祭司カヤパと最高議会での予審(マタイ26:57~68、マルコ14:53~65)
③最高議会の公式裁判と判決(マタイ27:1~2、ルカ22:66~71)
Ⅱ.ローマ側の裁判
①総督ピラトによる第1回目の審問(マタイ27:11~14、マルコ15:1~5、ルカ23:1~5、ヨハネ18:28~38)
②ヘロデによる審問(ルカ23:5~12)
③総督ピラトによる第2回目の審問と判決(マタイ27:15~26、マルコ15:6~15、ルカ23:13~25、ヨハネ18:39~19:16)
実質上ローマ帝国に支配されていたこの時代、イエス様を死刑にするためには、ローマ側の裁判が必要でした。そのために当時のパレスチナ地方一帯を治めていた地方総督ピラトのもとにイエス様を連行していったのです。ピラトの最大の関心事は治安の安定。ですから、イエス様が神かそうでないかとの宗教的問題への関心は皆無でした。イエス様への死刑判決は、群衆の声に押される形で、自分に有利となる方を選んだという結果でした。ピラトの決定は、「無関心と保身」によるものだったのです。
なぜ、罪のないお方がこのような形で裁判にかけられなければならなかったのでしょうか。それは、私たち人間の罪のためでした。十字架でイエス様が死なれることで、私たち人間の罪の贖いがされるという父なる神の御計画のためだったのです。これは、もっと深く考えますなら、実は、この私たち
一人一人の罪のためだったと言えるのです。
なぜ、人間は罪のない神の御子を十字架にかけてしまったのかを考えたいと思います。
Ⅰ.真理を探す姿
人間は心のどこかで真理を探しているのではないでしょうか。イエス様はご自身を「真理をあかしするために生まれ、このことのために来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。(18:37)と明確に話されました。
「罪」とは、反社会的な生き方だけではありません。ずるい考え方や自己中心的な生き方だけをいうのでもありません。もちろん、これらも「罪」に含まれます。けれども、もともと「罪」とは、ギリシャ語の「ハマルティア」の言語が示すように、「的外れな生き方」「的外れな状態」を表す言葉です。聖書は、はっきりと、イエスさまが審理である(14:6)と教えています。罪を解決されるのは、イエス様ご自身です。このイエス様をわが主と告白し、このイエス様と共に生きる生き方こそ、私たちの求めている真理なのです。

Ⅱ.律法に縛られている姿
ピラトがユダヤ人たちに、「この人には罪を認めません」と語ったとき、彼らは「私たちには律法があります」と反論します。ここにもう一つの罪の姿があります。
「律法に縛られている生き方」「律法に縛られている考え方」です。律法に生きようとすること自体は非常にまじめな行為と言えます。残念ながら律法主義は、恵みで生きる人を理解できず、自分と違う生き方をする人たちを排除しようとしてしまいます。自分だけが正しいと勘違いしてしまうのです。律法に生きる人は、気がつくと、まったく喜びがありません。自由がありません。神の恵みには自由があります。感謝と喜びがあります。自分を窮屈にする何もありません。
何よりも忘れてならない、感謝なことは、私たちがこの恵みに生きるために、罪のない、私たちの主イエス・キリストの十字架上の贖いの死があったということです。父なる神様が、ご自身のひとり子を十字架にかからせることを許されたということです。十字架で死なれ、復活されたイエス様は、ご自分が天に昇られる際、私たちのために助け主である聖霊を送ってくださいました。この聖霊に助けられながら、歩むようにと。十字架の恵みに感謝しつつ、この1週間を大切に過ごしていきたいと願います。

以上になります。ここまで読んでくださりありがとうございます。

今回の聖歌♪ 新聖歌102
「主は命を 与えませり 主は血潮を 流しませり
その死によりてぞ われは生きぬ
われ何をなして 主に報いし」

「人に仕える」イエスの模範に学ぶ [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは、早朝からぶぅでござい。
忙しい一週間でした。
いやぁ、本当に忙しかったね。
毎日、8時間くらいしか眠れなかったね。
今、隣で、姪っ子が独り言言いながら絵を描いているのだが、ほっといていいのだろうか。
返事したほうがいいのだろうか。
・・・ほっとこう。うん。

てことで、チャペルタイム入ります!!
今回は、黒田眞琴先生です。ありがとうございます。
ちなみに、今日の説教は、協力牧師の先生です。

聖書箇所=ヨハネの福音書13:1~15
説教題=「人に仕える」イエスの模範に学ぶ
中心聖句=主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗いあうべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。

本日は、「最後の晩餐」での出来事を通して、十字架に向かってまっすぐに進まれるイエスが示された「互いに謙遜に仕えあうこと」について教えられたいと思います。
学びの前に、受難日前日までの出来事をまとめてみます。
日曜日 エルサレム入城 月曜日 宮きよめ 火曜日 神殿についての説教
水曜日 ナルドの香油、銀貨30枚の裏切り
木曜日 最後の晩餐、洗足、ゲツセマネの祈り、逮捕
これらを頭に入れつつ、今日の聖書の学びに入ります。

1.イエスの愛(1~5節)
当時のイスラエルでは、現代の日本とは違い、道はほこりだらけで舗装もされておらず、サンダルを履く習慣のあった人々のあ足は、招かれた家に到着する頃には、汚れた足になってしまうのでした。ですから、それぞれの家には、足洗い用の水を溜めた水がめが準備されていて、お客は足を洗ってから家に入るのです。普通の家では、水差しとタオルを持った、足洗い専属の奴隷がおり、もしそのような奴隷がいない場合は互いに足を洗い合う習慣がありました。
しかし、この日、弟子たちは足を洗うことをせずに、二階の座敷に上がってしまったようです。
彼らは、愚かにも、自分たちの中で誰が一番偉いかということにのみ心が向いていたため、足を洗うという奴隷の仕事を避けて、汚れたままの足で二階へと上がり込んでしまったのです。
イエスは何度も新しい王国を打ち立てることを、語ってこられ、そのため弟子たちの中には、この晩餐が、いよいよローマ帝国の支配を打ち破る新しいイスラエル王国を建設するための、決起集会であると勘違いする者たちがいました。

1節をご覧ください。
「世にいる自分のものを愛されたイエス」が「その愛を残すことなく示され」ましたとあります。それが、弟子たちが「奴隷の仕事」と決めつけて、自分たちからは決して成そうとしなかった「洗足」という行為でした。4節。そこには、「上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰にまとわれた」主のお姿があります。5節。「たらいに水をいれ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた」のです。師であるイエスは、ご自分が「この世を去って父のみもとに行くべき時が来たことを知られ」、その弟子たちにその愛のすべてを表しておられます。
その弟子たちは、師であるイエスの語ることを十分に理解せず、自分本位な話題に心を傾けていたのです。イエスの近くにおり、直接教えを受ける恵みの中にいた彼らでしたが、残念ながら、その心の目は、本当には見えておらず、その心の耳も閉ざされていたのでした。

2.イエスの解説(12~20節)
イエスは、神の秩序の中で発揮される「リーダーシップ」が世間一般のリーダーシップとは違うことを教えます。一般に「リーダー」とは、支配する人、指図する人を指します。けれども、神の国のリーダーシップは支配ではなく、「仕えること」にあるのです。
この「仕える」と訳されるギリシャ語のもともとの意味は「配慮する、提供する」です。私たちはリーダーの最も重要な役割は、「心遣い」であることを知ります。親のような心遣い、親のようなかかわり方がリーダーに求められる最も大切な姿勢であると考えます。
この親のような心遣い、かかわり方とは、無償の愛のからでているものです。主イエスもこの洗足の出来事を愛の表れとして語っています。
「教育」という言葉には「教えること」「育てること」の二つが使われています。イエスの訓練は、ただ聖書を教えたのではなく、愛をもって弟子たちを育てるものでした。

私たちは、聖霊によってイエスを主であると信仰告白し、イエスの自己犠牲の姿を模範として生きるように教えられながら、聖化の歩みをたどっています。主の謙遜の姿勢に照らされながら、私たちの心を常に点検していただきつつ歩んでいます。信仰者であるからといって、まったく失敗がないわけではありません。自分の力に頼っては失敗し、自分の無力さをとことん知らされ。自己に絶望するでしょう。その時こそ、弱いところにこそ働かれる神の全能を知るのです。

以上になります。ここまで読んでいただきありがとうございます。

今回の聖歌♪ 新聖歌404
「弟子となし給え わが主よわが主よ
弟子となし給え わが主よ
心の底より 弟子となし給え わが主よ」

ナルドの香油 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは、ぶぅです。
三寒四温な毎日ですが、体調は守られていますか。
ぶぅはなんだか、眠くて眠くて、ブログも何かいてるんだかわからない状態です。
でも、そこかしこで花が咲き始めて、とてもきれいですね。
ぶぅの家のお庭も、活気づきそうです。

今回のチャペルタイムは、明先生です。
ありがとうございます。

聖書箇所=ヨハネの福音書12:1~8
説教題=ナルドの香油
中心聖句=主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい。(エペソ5:10)

今回の箇所は、十字架刑を目前に控えたイエスさまに対するベタニヤでの出来事です。
ヨハネの福音書では、誰の家で起こったことなのか、明記されていませんが、並行箇所を読みますと、かつてツァラートに冒された人、シモンの家であったことがわかります。
そこには、イエス様が愛し、親しくしておられたマルタとマリヤがいました。また、その弟で、以前イエス様のお力によって死から生き返らせていただいたラザロもいました。
イエス様とその弟子たちは、シモンの家のメインゲストとして、他の招待客と共に食事会をしていました。働き者のマルタは、このとき、喜んで給仕の手伝いをしており、ラザロは他の客たちとともに、食卓についていたようです。

そしてマリヤ。彼女はこのとき、思いもかけない驚くようなことをイエス様にしました。
非常に高価で純粋なナルドの香油300グラムの入った小さな石のつぼを持って、イエス様に近づくと、そのつぼを割り、イエス様の頭にその香油を注いだのです。
それがイエス様の足まで流れ出すと、彼女は自分の長い髪でイエス様の足を拭ったのです。
当時の習慣では、来客に対して、歓迎の意味を込め、香油を来客の頭に少しぬるとか、ほこりで汚れた来客の足を水で洗って拭いてあげるなどしていたようですが、マリヤのように、高価な香油をたっぷり使うということはありませんでした。

思うに、彼女にとって、この行為は単なる習慣や歓迎以上のものだったのではないでしょうか。
古代イスラエルでは、重要な職務に就くとき、「油注ぎ」という儀式が行われていました。まさにこの時、マリヤは十字架刑を目前に控えたイエス様こそ、苦難のメシヤであるということを直感し、その表明としての油注ぎをなしたのではと思うのです。
さらに、自らもそのメシヤを愛し、信じ、従っていく表明として、マリヤは、自分が最も大事にしていた香油を惜しげもなく、イエス様のために、使ったのではないかと思うのです。

マリヤが捧げた香油300グラムは、ほぼ年収に匹敵するたいへん高価なものであったようです。
そのため、その価値を知っていた弟子たちは、もったいなく思い、憤慨しました。
とりわけ、イスカリオテ・ユダは彼女に向かって「その香油は売れば、何百万にもなったはずだ、そのお金で貧しい人たちを助けてあげることができたのに」と言ったのです。
しかし、ユダは、本当に貧しい人たちのことを考えていったのではありませんでした。
ユダはお金に目がくらんでいたのです。心に闇を抱えていると、自分でも気が付かないうちに、人を傷つけ、人を卑しめてしあむことばがつい自分の口から出てきてしまうというようなことがあるのです。

イエス様は、マリヤを非難している弟子たちの心をすでに見抜いておられました。それなので、もっともらしい弟子たちの抗議を退け、一方マリヤに対しては、その行為を高く評価してくださり、喜んでくださいました。並行箇所マタイ26:13やマルコ14:9をご覧いただくなら、今回のマリヤのしたことは福音とともに代々伝えられ、記念としていつまでも覚えられることになるだろうと、イエス様はおっしゃいました。
事実、マリヤのしたことは、聖書にしるされ、現代に生きる私たちの目にも留まるものとなっているのです。

主に喜ばれることが何であるか見分けることとができたマリヤとそうではなかった心の鈍い弟子たちとが、今回の学びとなりましたが、私たちはどうでしょうか。主が願っておられることがなんであるのかを見分けることのできる心の状態に、今、あるといえるでしょうか。
さらに、主のみこころとあらば、喜んでそれに応えていくという信仰が、私たちにあるでしょうか。
打算を超えた純粋なイエス様への愛と喜んで主に仕える信仰・・・これらのものが自分のものとなり、また、教会のものとなっていくように真剣に祈っていきたいと思います。
そして、そのためには、みことばと聖霊に導かれやすい信仰者とされていくお互いでもありたいと思うのです。

以上になります。ここまで読んでくださりありがとうございました。


「神に愛されている兄弟たち。あなたがたが神に選ばれた者であることは私たちが知っています。」(Ⅰテサロニケ 1:4)

今週の聖歌♪ 新聖歌386
「ナルドの香油そそいで 主に仕えたマリアを
思いおこし 私の愛 ささげます 主イエスよ」

宮きよめ 2 [チャペルタイム]

2.弟子たちのとユダヤ人たちの反応(17~22節)
イエスの行動に対して、ここに二つの反応があります。
1つは弟子たちの反応。「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」というみことば(詩篇69:9)を思い起こしたとあります。
ここからわかる弟子たちの態度は驚きながらも、イエスの行動を主のみわざとして受け止めたということです。

これに対してユダヤ人たちの反応は、しるしを求めたということです。
この反応に対するイエスの返答「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」はユダヤ人たちを非常に驚かせました。
彼らは主のことばの真の意味を理解できなかったのです。
イエスが語られたのは、建物としての神殿ではなく、ご自身の十字架の死と3日目の復活についてでした。主ご自身のきよいお体を全人類の罪を贖ういけにえとして、十字架をその祭壇とすることで、神殿(祭壇)という建物は必要でなくなるのです。神殿とは神の臨在の象徴であり、主ご自身がその神殿なのです。
弟子たちでさえ、このときのイエスの真意がわかっていませんでした。

イエスの公生涯の終わりに行われた2回目の宮きよめをきっかけに、ユダヤ人指導者たちが急速にイエスを殺そうと動き出します。
こうして神を冒涜する者としてイエスが殺されたこと、3日目によみがえられたことを通して、弟子たちにもその意味がわかり、イエスを神の子キリスト、神殿の真の所有者、また礼拝を受けるべきお方としていよいよ深く信じるようになっていったのです。
このイエスの十字架と復活は、今まで動物の犠牲を必要とし、何度も繰り返し行われてきた人々の神殿礼拝を廃止させました。そして、イエスご自身を通してのただ一度の十字架の贖いによる新しい礼拝を人々の内に確立させたのです。

3.人の心を知っておられるイエス(23~25節)
人は奇跡を求めます。けれども残念ながら、人はその奇跡にのみ目を向け、その奇跡の背後におられる神を見ようとしないのです。「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。」とあります。
人はしるしを見ないと信じないものなのです。けれども24.25節には、イエスの人間理解を表す、「すべての人を知っておられた」「人のうちにあるものを知っておられた」とのことばが続きます。感情に流されやすく、つまずきやすい人々の心をご存じの主は、どのようなことが起こっても、人々にご自身をお任せになることもせず、人々の証言も必要とはなされませんでした。

私たちはここで、私たち自身の神理解を確認したいと思います。
イエスこそ神の子キリストであるということが明確になっているでしょうか。また、イエスは礼拝を受けるにふさわしいお方、礼拝を受けるべきお方であるということについてはどうでしょうか。
礼拝を捧げる場所である私たちの会堂も、み言葉と聖霊によって常に導かれるきよい交わりのある教会として、神に用いていただきとたいと願います。

主は、十字架の死と3日目の復活の後に、弟子のひとり、デドモと呼ばれるトマスに現れてくださり、「信じない者にならないで信じる者になりなさい。(中略)見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:27、28)と言われました。私たちも、苦痛の待つ十字架に向かって、神の御心を行うために、まっすぐ進んでくださったイエスご自身を知りながら、主をまっすぐ信じ、日々心からの礼拝をおささげする者でありたいと思います。

今は、この復活の主が私たちの礼拝の中心です。私たちに真のいのちを与えてくださるために、主が成してくださったことを思いめぐらし、主を心から礼拝する者でありましょう。

以上になります。なかなか削れなくて長くなってしまいました。
ごめんなさい。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

今回の聖歌♪ 新聖歌 376番
「汚れのみ多く いさおはなけれど 君は血潮もて 洗わせ給えり」

宮きよめ 1 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは、ぶぅでございます。
新年度が始まり、新しい生活をスタートされる方が、たくさんいらっしゃると思います。
益子キリスト福音館では、3名の姉妹(本当に三姉妹)が、一人が大阪、二人が軽井沢へと旅立ちました。
いろいろなところへ行っている姉妹なので、新しい場所でも、大丈夫だと思います。
たくさん学んで、いろいろぶぅに教えてね←
お祈りしてますよ♡

また、今月の31日で黒田明先生が、益子教会の主管牧師を辞任されまして、黒田眞琴先生が、4月から主管牧師に就任されます。
明先生も、月に一度はいらしてくださるという事なので、寂しさも少しは緩和されそうです。
眞琴先生が就任される今年度は、平日に集まって家庭集会や教会学校など、催される行事(?)も増えると思います。眞琴先生は、火木土と来てくださいます♪
もし、何か決まれば、このブログでお知らせするので、よかったら、みなさん来てください!!
てことでー、チャペルタイム要約です!!
今回は眞琴先生です。ありがとうございます。

聖書箇所=ヨハネ2:13~25
説教題=宮きよめ
中心聖句=「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)

今年のイースターは4月16日(第3主日)です。今月は、イエスの「十字架」に焦点を当てて、「十字架」に向かって進まれたイエスから学ばせていただき、今、私たちが礼拝している主は、「復活」の主であることを確認するときでありたいと思います。

ローマの処刑法にはさまざまな刑があり、最も軽い刑がむち打ちの刑(ただし、ユダヤのそれが表面をなめした革であったのに対し、ローマの鞭うちは、そのなめらかな革の先に、針や石などをつけた苦痛を伴うものであったといわれています)、断崖から突き落とす刑、猛獣の餌食とする刑、火あぶりの刑などがあったといわれていますが、十字架刑はこれらのどの刑よりも苦しみを伴う刑とされ、生きながらにして、十字架に釘打たれ、さらしものにされました。非常に苦しい痛みと呼吸困難のなか、なかなか死ぬことができないため、その苦しみが長時間継続されたのです。
しかし、イエスはわずか6時間で、息を引き取られました。
イエスの肉体の疲労や衰弱のためかもしれませんが、ここに、神の憐れみがあったことを、私たちは感じます。
では、本日の聖書箇所に入ります。十字架と復活を予告されるイエスのお姿を学び、十字架にむかって歩まれたイエスに心から礼拝を捧げたいと思います。

1.宮きよめ
ヨハネの福音書は、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と違う視点で記されていますが、特に最初の5章は、ほとんど他の福音書には無い内容になっています。その中でも、この宮きよめは、イエスの宣教の初期に行われたもので、他の福音書の宮きよめ(マタイ21章、マルコ11章、ルカ19章は受難週の最初に行われたもの)とは別の出来事と思われます。
この最初の宮きよめは、主の十字架と復活の予告を強く表していると言われています。
いずれにしましても、イエスの意思は共通したものでした。
イエスの意思、それは、宮きよめを通して、私たちに「神への礼拝の姿勢」を問うているということです。
ここで見るイエスの怒りをあらわにする姿に私たちは戸惑います。
いつも穏やかで柔和な主の姿を知る私たちには違和感を覚えるのです。
主はいつでも、私たちにご自身を用いて模範を示されます。当時多くの巡礼者がエルサレムを訪れ、いけにえを捧げていましたが、両替商や動物を売る者たちがいて、礼拝するはずの場所が「商売の家
(他の福音書では「強盗の巣」)になっていたのです。
イエスが望まれた礼拝の場所である神殿は、「神の家」「礼拝の家」でした。
また、神への礼拝は、「全焼のいけにえではなく、砕かれた心、悔いた心」をもってであるべきでした。
本来ならば、「異邦人の庭」は、聖所に近づくことの許されない異邦人が、唯一祈りと礼拝を許された場所でした。その「異邦人の庭」での両替や商売は、最初こそ巡礼者にとって便宜を図って開始された場所であったのですが、いつの間にか、両替人たちは多くの手数料を取り、商売人たちは高値で商売をして暴利をむさぼり、祭司たちでさえ場所代として利益を得るようになってたいたのです。
そのため、イエスはこのような状況に怒りを覚えられました。
そして主は、細い縄のむちで、商売人たちを強制的にそこから追い出し、両替人たちに対しても、お金をまき散らし、台も倒しました。また、鳩を売る者たちに対しては、荷物をまとめて立ち去るよう強くお命じになられたのです、(つづく)

ナアマン [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。ぶぅでございます。
ぶぅ、絹豆腐で、きなこアイスと抹茶アイスをつくりました!!あとね、ほうじ茶ゼリー
でも、まだ食べていないのです。
あ、抹茶アイスは、母上様から、おいしいという評価をいただきました。
もしかすると、ぶぅは変態かもしれません。
間違えました。
もしかすると、ぶぅは天才かもしれません。
とか言って自分で考えたレシピじゃないんだけどね←
・・・要約入っちゃう?
今回は眞琴先生です♡ありがとうございます♪

聖書箇所=Ⅱ列王記5:1~19
説教題=ナアマン
中心聖句=すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。(ヤコブ1:21)

本日、私たちが学ぼうとしている旧約の登場人物は、預言者エリヤの後継者であるエリシャの時代、イスラエルの侵略者、敵であったアラムの将軍ナアマンです。この「ナアマン」から、「素直にみことばを信じる信仰の姿勢」を学びたいと思います。

最初に、今回の箇所に登場するもう一人の人物「エリシャ」についても見ておきたいと思います。
Ⅰ列王記19:15~21の箇所には、預言者として召されたエリシャの覚悟を見ることができます。
エリシャは、24頭もの雄牛を耕作に使用するほどの裕福な環境にありましたが、彼が心配したのは持ち物ではなく、自分か神の働きに召された後の家族のことでした。
私たちは、このエリシャの姿勢から、家族に対するクリスチャンとしての模範を教えられます。エリシャは礼儀正しく、家族に感謝を伝え自分の召しのことを伝えました。私たちも、身近な家族にこそ丁寧な対応で感謝を伝えたいと思います。

「エリシャ」の名前の意味は「神は救いである」です。まさに、彼はこの名のごとく、神の預言者として50年にも渡る長い期間、北イスラエルにおいて、アハブ、アハズヤ、ヨラム、エフー、エホアハズ、ヨシュア王の治世の間、忠実に働き、その優れた働きは、周辺の南王国ユダ、モアブ、アラムにも大きな影響を与えました。

このエリシャの働きの中で、特にすばらしいとされるのが、今回のイスラエルの周辺に位置するアラムの将軍ナアマンの癒しの記事です。

1.将軍ナアマンがイスラエルに来た理由(1~7節)
ナアマンの人物像は、1節の「主君に重んじられ、尊敬されていた」「主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられた」という記述から、主君にとって有能なしもべであり、「主がかつて」とあること、2節のイスラエルからの捕虜の若い娘がナアマンの妻のはしためであったことから、ナアマンの癒しのため、すでに主の御介入があったことが、わかります。
ナアマンには、立派な肩書と立場がありましたが、深い悩みがありました。
1節後半には、「この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。」とあります。ツァラアトとは、「何らかの原因により、人体や物の表面が侵された状態」であります。
ナアマンの場合は重い皮膚病で、人知れず悩んでいたと予想できます。
この病気を癒すというのが、ナアマンがイスラエルに出向いた理由でした。
しかし、イスラエルの王は、このらいをアラムが自国に攻め込むための言いがかりだと思い、アラムに脅威を感じます(7節)。ここには、神の預言者を信じ頼ろうとする異邦の国の将軍ナアマンと、神の民イスラエルの王でありながら、神の預言者を信じきれない王の対比があります。

2.エリシャとナアマン(8~14節)
王の態度を知ったエリシャは、王のもとに使いを出し、ナアマンを自分のもとに来させるように願い出ます。エリシャの思いはナアマンが「イスラエルに預言者がいることを知る」ということにありましたが、もう一つ、イスラエルの王も同様にまことの神の預言者が、神によって力ある活動をしていることを知ることにもありました。

ナアマンは、当然、エリシャ自身が迎え入れて、丁寧に対応してくれると思い、「馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った」のです。この「馬と戦車をもって来て」は、威厳を正し、礼儀を尽くした彼の心が表れています。
しかし、エリシャは自ら対応することなく、「使いをやって言った」とあります(10節)
エリシャの対応にナアマンが怒ったのも無理はないかもしれません。
けれども、エリシャのこの対応には、ナアマンに対する特別な二つの意図があったのです。

一つ目は、力ある神が、ナアマンを癒したと信じてほしい。神の預言者にではなく、神に目を向けてほしいということ。
二つ目は、ナアマンに癒しは特別な方法にではなく、信仰によるのだということを知ってほしいということ。
ナアマンはしもべたちの言葉に促され、エリシャの言うとおりにヨルダン川に7回身を沈めました。
すると「彼のからだは元通りになって、幼子のからだのようになり、きよく」なりました。

3.癒されたナアマンの得たもの
こうしてすっかり癒されたナアマンは「その一行の者を全部連れて、神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った(15節)」のです。
「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました(同)」
これは、ナアマンの信仰告白です。

ナアマンには怒っても、しもべたちの言葉に耳を貸すへりくだりがありました。
金銀や地位や人徳という、人間の持てるあらゆる素晴らしい物を持ち合わせていたナアマンでしたが、いつかそれらは、彼を高慢にさせていました。それらを自ら脱ぎ、裸になってヨルダン川に入るという謙遜さが、ナアマンの体にツァラアトからの癒しと、異教徒の彼にまことの神との出会いと、信仰を与えたのです。

ナアマンを救いに導いたのはツァラアトでした。そして、恵みにあずからせたのは謙遜だったのです。
神がみことばを通して示されることに、どんな小さなことでも従順に応答し、悔い改めることは全て悔い改め、内に住まわれる聖霊に導かれながら、勝利の生活を送る者でありたいと思います。

以上になります。よんでくださり、ありがとうございます。
どうか、父なる神と主イエス・キリストが、あふれるばかりの祝福と平安とを、あなたがたに与えてくださいますように。(Ⅱテサロニケ1:2)

今週の聖歌♪ 新聖歌276
「われには他の 隠れ家あらず 頼る方なき この魂を 委ねまつれば 御慈しみの
翼の陰に 守らせたまえ」
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