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不当な裁判 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。ぶぅでございます。
今日は、受難週の木曜日。この前、学びましたが、最後の晩餐、洗足、ゲツセマネの祈り、逮捕の日です。
すみません、ぶぅは、今日、真琴先生に言われるまで忘れてました↓↓
師であるイエスさまが、弟子たちの足を洗ってくださった。ここで、聖句を一つ入れたいとおもいます。
「だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」ルカ22:26
いつも謙虚な気持ちで、自分の行為が正しい、自分の考えが正しい、自分はこの人よりも秀でているなどと、人と比べたり、自分の行動や言動を自分の力でやったと思わずに、感謝をもっていきたいですね。
はい、ぶぅは、何を言おうとしたか忘れたので、チャペルタイム要約入ります←
真琴先生です。ありがとうございます。

聖書箇所=ヨハネの福音書18:19~24 18:28~19:16
説教題=不当な裁判
中心聖句=キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しい方にお任せになりました。(Ⅰペテロ2:22~23)

毎年、レントを迎え、私たちは、十字架の道を歩まれる神の御子、イエス・キリストのお姿を学びます。そして、そのご自分のひとり子であられるイエスさまを私たちの贖いとされるため、十字架の上で死なれることを選ばれた父なる神のご愛に感謝します。
あなたの試練は、あなたの知らない所で、神の家族や誰かにとっての恵みとなっています。そして、神に愛されるあなたにとって、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出」し、「この希望は失望に終わることがありません」と異邦人への伝道者パウロがローマ5:3.4で語っています。なぜなら、私たちは「信仰によって義と認められ」ており、「神との平和を持ってい」る者であるからです。また、「私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているから」なのです。

ゲツセマネでの祈りの後、逮捕されたイエスさまに対する裁判について学びます。その裁判は、ユダヤ側の裁判3回、ローマ側の裁判3回の合計6回もの裁判が深夜から翌日の午前にかけて行われました。このことはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四福音書の記事からわかります。
Ⅰ.ユダヤ最高議会(サンヘドリン)による裁判
①大祭司カヤパのしゅうとアンナスによる非公式審問(ヨハネ18:12~24)
②大祭司カヤパと最高議会での予審(マタイ26:57~68、マルコ14:53~65)
③最高議会の公式裁判と判決(マタイ27:1~2、ルカ22:66~71)
Ⅱ.ローマ側の裁判
①総督ピラトによる第1回目の審問(マタイ27:11~14、マルコ15:1~5、ルカ23:1~5、ヨハネ18:28~38)
②ヘロデによる審問(ルカ23:5~12)
③総督ピラトによる第2回目の審問と判決(マタイ27:15~26、マルコ15:6~15、ルカ23:13~25、ヨハネ18:39~19:16)
実質上ローマ帝国に支配されていたこの時代、イエス様を死刑にするためには、ローマ側の裁判が必要でした。そのために当時のパレスチナ地方一帯を治めていた地方総督ピラトのもとにイエス様を連行していったのです。ピラトの最大の関心事は治安の安定。ですから、イエス様が神かそうでないかとの宗教的問題への関心は皆無でした。イエス様への死刑判決は、群衆の声に押される形で、自分に有利となる方を選んだという結果でした。ピラトの決定は、「無関心と保身」によるものだったのです。
なぜ、罪のないお方がこのような形で裁判にかけられなければならなかったのでしょうか。それは、私たち人間の罪のためでした。十字架でイエス様が死なれることで、私たち人間の罪の贖いがされるという父なる神の御計画のためだったのです。これは、もっと深く考えますなら、実は、この私たち
一人一人の罪のためだったと言えるのです。
なぜ、人間は罪のない神の御子を十字架にかけてしまったのかを考えたいと思います。
Ⅰ.真理を探す姿
人間は心のどこかで真理を探しているのではないでしょうか。イエス様はご自身を「真理をあかしするために生まれ、このことのために来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。(18:37)と明確に話されました。
「罪」とは、反社会的な生き方だけではありません。ずるい考え方や自己中心的な生き方だけをいうのでもありません。もちろん、これらも「罪」に含まれます。けれども、もともと「罪」とは、ギリシャ語の「ハマルティア」の言語が示すように、「的外れな生き方」「的外れな状態」を表す言葉です。聖書は、はっきりと、イエスさまが審理である(14:6)と教えています。罪を解決されるのは、イエス様ご自身です。このイエス様をわが主と告白し、このイエス様と共に生きる生き方こそ、私たちの求めている真理なのです。

Ⅱ.律法に縛られている姿
ピラトがユダヤ人たちに、「この人には罪を認めません」と語ったとき、彼らは「私たちには律法があります」と反論します。ここにもう一つの罪の姿があります。
「律法に縛られている生き方」「律法に縛られている考え方」です。律法に生きようとすること自体は非常にまじめな行為と言えます。残念ながら律法主義は、恵みで生きる人を理解できず、自分と違う生き方をする人たちを排除しようとしてしまいます。自分だけが正しいと勘違いしてしまうのです。律法に生きる人は、気がつくと、まったく喜びがありません。自由がありません。神の恵みには自由があります。感謝と喜びがあります。自分を窮屈にする何もありません。
何よりも忘れてならない、感謝なことは、私たちがこの恵みに生きるために、罪のない、私たちの主イエス・キリストの十字架上の贖いの死があったということです。父なる神様が、ご自身のひとり子を十字架にかからせることを許されたということです。十字架で死なれ、復活されたイエス様は、ご自分が天に昇られる際、私たちのために助け主である聖霊を送ってくださいました。この聖霊に助けられながら、歩むようにと。十字架の恵みに感謝しつつ、この1週間を大切に過ごしていきたいと願います。

以上になります。ここまで読んでくださりありがとうございます。

今回の聖歌♪ 新聖歌102
「主は命を 与えませり 主は血潮を 流しませり
その死によりてぞ われは生きぬ
われ何をなして 主に報いし」
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