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宮きよめ 2 [チャペルタイム]

2.弟子たちのとユダヤ人たちの反応(17~22節)
イエスの行動に対して、ここに二つの反応があります。
1つは弟子たちの反応。「あなたの家を思う熱心がわたしを食い尽くす」というみことば(詩篇69:9)を思い起こしたとあります。
ここからわかる弟子たちの態度は驚きながらも、イエスの行動を主のみわざとして受け止めたということです。

これに対してユダヤ人たちの反応は、しるしを求めたということです。
この反応に対するイエスの返答「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう」はユダヤ人たちを非常に驚かせました。
彼らは主のことばの真の意味を理解できなかったのです。
イエスが語られたのは、建物としての神殿ではなく、ご自身の十字架の死と3日目の復活についてでした。主ご自身のきよいお体を全人類の罪を贖ういけにえとして、十字架をその祭壇とすることで、神殿(祭壇)という建物は必要でなくなるのです。神殿とは神の臨在の象徴であり、主ご自身がその神殿なのです。
弟子たちでさえ、このときのイエスの真意がわかっていませんでした。

イエスの公生涯の終わりに行われた2回目の宮きよめをきっかけに、ユダヤ人指導者たちが急速にイエスを殺そうと動き出します。
こうして神を冒涜する者としてイエスが殺されたこと、3日目によみがえられたことを通して、弟子たちにもその意味がわかり、イエスを神の子キリスト、神殿の真の所有者、また礼拝を受けるべきお方としていよいよ深く信じるようになっていったのです。
このイエスの十字架と復活は、今まで動物の犠牲を必要とし、何度も繰り返し行われてきた人々の神殿礼拝を廃止させました。そして、イエスご自身を通してのただ一度の十字架の贖いによる新しい礼拝を人々の内に確立させたのです。

3.人の心を知っておられるイエス(23~25節)
人は奇跡を求めます。けれども残念ながら、人はその奇跡にのみ目を向け、その奇跡の背後におられる神を見ようとしないのです。「多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。」とあります。
人はしるしを見ないと信じないものなのです。けれども24.25節には、イエスの人間理解を表す、「すべての人を知っておられた」「人のうちにあるものを知っておられた」とのことばが続きます。感情に流されやすく、つまずきやすい人々の心をご存じの主は、どのようなことが起こっても、人々にご自身をお任せになることもせず、人々の証言も必要とはなされませんでした。

私たちはここで、私たち自身の神理解を確認したいと思います。
イエスこそ神の子キリストであるということが明確になっているでしょうか。また、イエスは礼拝を受けるにふさわしいお方、礼拝を受けるべきお方であるということについてはどうでしょうか。
礼拝を捧げる場所である私たちの会堂も、み言葉と聖霊によって常に導かれるきよい交わりのある教会として、神に用いていただきとたいと願います。

主は、十字架の死と3日目の復活の後に、弟子のひとり、デドモと呼ばれるトマスに現れてくださり、「信じない者にならないで信じる者になりなさい。(中略)見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20:27、28)と言われました。私たちも、苦痛の待つ十字架に向かって、神の御心を行うために、まっすぐ進んでくださったイエスご自身を知りながら、主をまっすぐ信じ、日々心からの礼拝をおささげする者でありたいと思います。

今は、この復活の主が私たちの礼拝の中心です。私たちに真のいのちを与えてくださるために、主が成してくださったことを思いめぐらし、主を心から礼拝する者でありましょう。

以上になります。なかなか削れなくて長くなってしまいました。
ごめんなさい。

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)

今回の聖歌♪ 新聖歌 376番
「汚れのみ多く いさおはなけれど 君は血潮もて 洗わせ給えり」

宮きよめ 1 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは、ぶぅでございます。
新年度が始まり、新しい生活をスタートされる方が、たくさんいらっしゃると思います。
益子キリスト福音館では、3名の姉妹(本当に三姉妹)が、一人が大阪、二人が軽井沢へと旅立ちました。
いろいろなところへ行っている姉妹なので、新しい場所でも、大丈夫だと思います。
たくさん学んで、いろいろぶぅに教えてね←
お祈りしてますよ♡

また、今月の31日で黒田明先生が、益子教会の主管牧師を辞任されまして、黒田眞琴先生が、4月から主管牧師に就任されます。
明先生も、月に一度はいらしてくださるという事なので、寂しさも少しは緩和されそうです。
眞琴先生が就任される今年度は、平日に集まって家庭集会や教会学校など、催される行事(?)も増えると思います。眞琴先生は、火木土と来てくださいます♪
もし、何か決まれば、このブログでお知らせするので、よかったら、みなさん来てください!!
てことでー、チャペルタイム要約です!!
今回は眞琴先生です。ありがとうございます。

聖書箇所=ヨハネ2:13~25
説教題=宮きよめ
中心聖句=「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)

今年のイースターは4月16日(第3主日)です。今月は、イエスの「十字架」に焦点を当てて、「十字架」に向かって進まれたイエスから学ばせていただき、今、私たちが礼拝している主は、「復活」の主であることを確認するときでありたいと思います。

ローマの処刑法にはさまざまな刑があり、最も軽い刑がむち打ちの刑(ただし、ユダヤのそれが表面をなめした革であったのに対し、ローマの鞭うちは、そのなめらかな革の先に、針や石などをつけた苦痛を伴うものであったといわれています)、断崖から突き落とす刑、猛獣の餌食とする刑、火あぶりの刑などがあったといわれていますが、十字架刑はこれらのどの刑よりも苦しみを伴う刑とされ、生きながらにして、十字架に釘打たれ、さらしものにされました。非常に苦しい痛みと呼吸困難のなか、なかなか死ぬことができないため、その苦しみが長時間継続されたのです。
しかし、イエスはわずか6時間で、息を引き取られました。
イエスの肉体の疲労や衰弱のためかもしれませんが、ここに、神の憐れみがあったことを、私たちは感じます。
では、本日の聖書箇所に入ります。十字架と復活を予告されるイエスのお姿を学び、十字架にむかって歩まれたイエスに心から礼拝を捧げたいと思います。

1.宮きよめ
ヨハネの福音書は、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)と違う視点で記されていますが、特に最初の5章は、ほとんど他の福音書には無い内容になっています。その中でも、この宮きよめは、イエスの宣教の初期に行われたもので、他の福音書の宮きよめ(マタイ21章、マルコ11章、ルカ19章は受難週の最初に行われたもの)とは別の出来事と思われます。
この最初の宮きよめは、主の十字架と復活の予告を強く表していると言われています。
いずれにしましても、イエスの意思は共通したものでした。
イエスの意思、それは、宮きよめを通して、私たちに「神への礼拝の姿勢」を問うているということです。
ここで見るイエスの怒りをあらわにする姿に私たちは戸惑います。
いつも穏やかで柔和な主の姿を知る私たちには違和感を覚えるのです。
主はいつでも、私たちにご自身を用いて模範を示されます。当時多くの巡礼者がエルサレムを訪れ、いけにえを捧げていましたが、両替商や動物を売る者たちがいて、礼拝するはずの場所が「商売の家
(他の福音書では「強盗の巣」)になっていたのです。
イエスが望まれた礼拝の場所である神殿は、「神の家」「礼拝の家」でした。
また、神への礼拝は、「全焼のいけにえではなく、砕かれた心、悔いた心」をもってであるべきでした。
本来ならば、「異邦人の庭」は、聖所に近づくことの許されない異邦人が、唯一祈りと礼拝を許された場所でした。その「異邦人の庭」での両替や商売は、最初こそ巡礼者にとって便宜を図って開始された場所であったのですが、いつの間にか、両替人たちは多くの手数料を取り、商売人たちは高値で商売をして暴利をむさぼり、祭司たちでさえ場所代として利益を得るようになってたいたのです。
そのため、イエスはこのような状況に怒りを覚えられました。
そして主は、細い縄のむちで、商売人たちを強制的にそこから追い出し、両替人たちに対しても、お金をまき散らし、台も倒しました。また、鳩を売る者たちに対しては、荷物をまとめて立ち去るよう強くお命じになられたのです、(つづく)

自分中心 [3分間メッセージ]

続けましてこばにちは、ぶぅでございます。
しばらく咳ぜんそくと、アトピー咳嗽と戦っておりました。
吸入器とか初めて見た!!ぶぅはカフェで働いていますので、咳をするのは非常によくないのですね。
知らない人からしたら、「風邪かな、うつったらやだな」って思っちゃうしね。
でも、見事、神さまの勝利。
今はほとんど咳でないです♡
みなさん、お祈りありがとうございました!!

では本題に。今回は協力牧師の先生のメッセージだったので、黒田明先生の3分間メッセージを載せたいとおもいます。お付き合いください。

自分中心
いかがお過ごしでしょうか。今回は「自分中心」と題してお話をいたします。
ある時、東京のビジネス街を歩いておりましたら、畳一枚ほどもある大きな世界地図を見かけました。その地図を見た瞬間、私には何かちょっと違和感がありました。どうしてかと言いますと、その地図はヨーロッパが真ん中で、左側にアメリカ大陸、日本は最も右側、つまり東の端にあったからです。いつも私たち日本人が見慣れている、日本が中心にある世界地図ではなかったのです。
考えてみますとこれは当たり前と言いますか、どこの国でも自分の国を中心にして地図を描くものです。私たちが世界地図を見るときは、いつも日本が中心で、左側にヨーロッパ大陸、右側にアメリカ大陸、そういう地図に慣れてしまっていますから、そうではない地図を見ると違和感を覚えるのです。「すべての国は自分の国を中心にして世界地図を描く」のです。日本のことを「極東」と呼ぶのもなるほどとわかりました。つまり日本はこの地図で見ると、「東の果て」にある国なのです。
「自分中心」。このことは地図をかくときぐらいでしたら、ほほえましいと笑ってすませることができます。けれども、人間関係にこれを持ち込みますと、大変厄介ことになります。人間同士の争いのほとんどの原因はこの「自分中心」です。いつでも自分が正しくて相手が悪いのです。現代は人間関係で悩む人がとても多く、カウンセリングが大流行になっています。しかしカウンセリング理論の大前提は、「カウンセリングによって相手を変えることはできない。カウンセリングで変えることができるのは患者本人だけ」なのです。
現代人神を見えなくさせているのは自分中心です。キリスト教の根本的教えは「神中心」であって人間中心ではありません。見えない神さまは人間を造り、イエス・キリストという目に見える方によって現れてくださいました。それで初めて、人間はこの神さまを知ることができるのです。もしあなたが「人間は造られた存在である」という大前提を認めるなら、あなたにとって神さまは、もうあなたのすぐそばにおられるお方です。そしてこの方は、今、あなたの心の扉をたたいておられるのです。
聖書のことば。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼と共に食事をし、彼もわたしとともに食事をする」(ヨハネの黙示録3:20)

以上になります。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

今週の聖歌♪ 新聖歌284
「ひたすら求めよ 今も主は
誓いの御霊を 与え給う」

ナアマン [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。ぶぅでございます。
ぶぅ、絹豆腐で、きなこアイスと抹茶アイスをつくりました!!あとね、ほうじ茶ゼリー。
でも、まだ食べていないのです。
あ、抹茶アイスは、母上様から、おいしいという評価をいただきました。
もしかすると、ぶぅは変態かもしれません。
間違えました。
もしかすると、ぶぅは天才かもしれません。
とか言って自分で考えたレシピじゃないんだけどね←
・・・要約入っちゃう?
今回は眞琴先生です♡ありがとうございます♪

聖書箇所=Ⅱ列王記5:1~19
説教題=ナアマン
中心聖句=すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。(ヤコブ1:21)

本日、私たちが学ぼうとしている旧約の登場人物は、預言者エリヤの後継者であるエリシャの時代、イスラエルの侵略者、敵であったアラムの将軍ナアマンです。この「ナアマン」から、「素直にみことばを信じる信仰の姿勢」を学びたいと思います。

最初に、今回の箇所に登場するもう一人の人物「エリシャ」についても見ておきたいと思います。
Ⅰ列王記19:15~21の箇所には、預言者として召されたエリシャの覚悟を見ることができます。
エリシャは、24頭もの雄牛を耕作に使用するほどの裕福な環境にありましたが、彼が心配したのは持ち物ではなく、自分か神の働きに召された後の家族のことでした。
私たちは、このエリシャの姿勢から、家族に対するクリスチャンとしての模範を教えられます。エリシャは礼儀正しく、家族に感謝を伝え自分の召しのことを伝えました。私たちも、身近な家族にこそ丁寧な対応で感謝を伝えたいと思います。

「エリシャ」の名前の意味は「神は救いである」です。まさに、彼はこの名のごとく、神の預言者として50年にも渡る長い期間、北イスラエルにおいて、アハブ、アハズヤ、ヨラム、エフー、エホアハズ、ヨシュア王の治世の間、忠実に働き、その優れた働きは、周辺の南王国ユダ、モアブ、アラムにも大きな影響を与えました。

このエリシャの働きの中で、特にすばらしいとされるのが、今回のイスラエルの周辺に位置するアラムの将軍ナアマンの癒しの記事です。

1.将軍ナアマンがイスラエルに来た理由(1~7節)
ナアマンの人物像は、1節の「主君に重んじられ、尊敬されていた」「主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられた」という記述から、主君にとって有能なしもべであり、「主がかつて」とあること、2節のイスラエルからの捕虜の若い娘がナアマンの妻のはしためであったことから、ナアマンの癒しのため、すでに主の御介入があったことが、わかります。
ナアマンには、立派な肩書と立場がありましたが、深い悩みがありました。
1節後半には、「この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。」とあります。ツァラアトとは、「何らかの原因により、人体や物の表面が侵された状態」であります。
ナアマンの場合は重い皮膚病で、人知れず悩んでいたと予想できます。
この病気を癒すというのが、ナアマンがイスラエルに出向いた理由でした。
しかし、イスラエルの王は、このらいをアラムが自国に攻め込むための言いがかりだと思い、アラムに脅威を感じます(7節)。ここには、神の預言者を信じ頼ろうとする異邦の国の将軍ナアマンと、神の民イスラエルの王でありながら、神の預言者を信じきれない王の対比があります。

2.エリシャとナアマン(8~14節)
王の態度を知ったエリシャは、王のもとに使いを出し、ナアマンを自分のもとに来させるように願い出ます。エリシャの思いはナアマンが「イスラエルに預言者がいることを知る」ということにありましたが、もう一つ、イスラエルの王も同様にまことの神の預言者が、神によって力ある活動をしていることを知ることにもありました。

ナアマンは、当然、エリシャ自身が迎え入れて、丁寧に対応してくれると思い、「馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った」のです。この「馬と戦車をもって来て」は、威厳を正し、礼儀を尽くした彼の心が表れています。
しかし、エリシャは自ら対応することなく、「使いをやって言った」とあります(10節)
エリシャの対応にナアマンが怒ったのも無理はないかもしれません。
けれども、エリシャのこの対応には、ナアマンに対する特別な二つの意図があったのです。

一つ目は、力ある神が、ナアマンを癒したと信じてほしい。神の預言者にではなく、神に目を向けてほしいということ。
二つ目は、ナアマンに癒しは特別な方法にではなく、信仰によるのだということを知ってほしいということ。
ナアマンはしもべたちの言葉に促され、エリシャの言うとおりにヨルダン川に7回身を沈めました。
すると「彼のからだは元通りになって、幼子のからだのようになり、きよく」なりました。

3.癒されたナアマンの得たもの
こうしてすっかり癒されたナアマンは「その一行の者を全部連れて、神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った(15節)」のです。
「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました(同)」
これは、ナアマンの信仰告白です。

ナアマンには怒っても、しもべたちの言葉に耳を貸すへりくだりがありました。
金銀や地位や人徳という、人間の持てるあらゆる素晴らしい物を持ち合わせていたナアマンでしたが、いつかそれらは、彼を高慢にさせていました。それらを自ら脱ぎ、裸になってヨルダン川に入るという謙遜さが、ナアマンの体にツァラアトからの癒しと、異教徒の彼にまことの神との出会いと、信仰を与えたのです。

ナアマンを救いに導いたのはツァラアトでした。そして、恵みにあずからせたのは謙遜だったのです。
神がみことばを通して示されることに、どんな小さなことでも従順に応答し、悔い改めることは全て悔い改め、内に住まわれる聖霊に導かれながら、勝利の生活を送る者でありたいと思います。

以上になります。よんでくださり、ありがとうございます。
どうか、父なる神と主イエス・キリストが、あふれるばかりの祝福と平安とを、あなたがたに与えてくださいますように。(Ⅱテサロニケ1:2)

今週の聖歌♪ 新聖歌276
「われには他の 隠れ家あらず 頼る方なき この魂を 委ねまつれば 御慈しみの
翼の陰に 守らせたまえ」

カルメル山上での対決 [チャペルタイム]

はーい、仕事場のカフェで、お客さんに「ご飯は食前と食後どちらがいいですか?」と聞いた勇者はここですよー!!
こんな時間にこばにちは。ぶぅでございます。
サクマ式ドロップってみなさんご存じ?
缶に入ってる飴ちゃんなのですが、あれ、100円なの。
安くない?
てことで要約入ります←
黒田明先生です。ありがとうございます。

聖書箇所=Ⅰ列王記18:1~46(18:20~24)
説教題=カルメル山上での対決
中心聖句=私が仕えている万軍の主は生きておられます。(Ⅰ列王記18:15)

イスラエルが北と南とに分かれた分裂時代のことです。北イスラエル王国において、第七代の王として即位したのは先王オムリの息子アハブでした。このアハブほど霊的に最悪な王はいませんでした。
彼は、偶像礼拝に非常に熱心だったからです。
シドン人の王の娘イゼベルを妻に迎えると、その異教の地からバアル礼拝を持ち込み、バアル神殿や祭壇などを作っては、国民に拝ませようとしました。

そこで神は預言者エリヤを彼のところに遣わしました。そして、今後2年~3年の間は雨が降らないことを王に告げたのです。このとき、アハブ王が謙遜であったなら、彼にとっても国にとっても、良い悔い改めのチャンスになったに違いありません。
しかし、彼の心はかたくなで、かえって神の側につくエリヤに敵意を抱き、殺意をいだく機会としていくのです。しかし、神が守ってくださいました。アハブ王から彼のいのちを守り、また飢饉からさえも守ってくださったのです。

今回の記事は、エリヤが神によってかくまわれてから3年目のことになります。
神はエリヤにアハブ王に会いに行くようにと、命じられました。
その目的は2つです。
1つ、神が雨を降らせてイスラエルを癒してくださるという告知、2つ、バアルの預言者との対決を通して、まことの神の力を明らかにするということです。
16章以降をご覧ください。アハブ王はエリヤに会うなり、「イスラエルを苦しめてるやつめ」とののしりました。一方エリヤは「いいえ、あなたこそイスラエルを苦しめているのです。あなたがまことの神を捨て、偶像の神バアルを拝んでいるからです」と言い返し、すぐにバアルの預言者との対決を提案しました。
エリヤはまず、大勢のイスラエルの国民に向かって悔い改めの招きをしました。
干ばつと飢饉に見舞われている中にあって、「まことの神、主を認めて立ち返るのか、それともバアルを神として、それに従っていくのか。」そして23節~24節で、具体的な提案をします。
自分の側に有利に見える条件があれば、それを徹底的に取り除いても結構だということ、バアルの預言者の土俵で対決するといたようなことです。
いよいよ対決の開始となりました。

最初はバアルの預言者たちの番となりましたが、結局のところ、何も起こりませんでした。
次はエリヤの番ですが、彼は人々から忘れ去られてしまった祭壇を建て直すことから始めました。そうすることが、まことの神に対する、信仰の回復の始まりだったからです。
そして静かに祈り始めました。
すると、神のみわざは実に見事でした。天から火をくだすと、いけにえはもとより、たきぎも石も、さらに祭壇の周りに掘られたみぞに注がれたたっぷりの水さえも焼き尽くされてしまったのです。
このようにして、圧倒的な神の力を見せられたイスラエルの人々は、まことの神へと立ち返っていきました。
そして、エリヤが祈ると、恵みの雨が降り注ぎ、イスラエルの土地とそこに住む人々が癒されるという神の祝福をいただくことになったのです。

以上のようなわけで、崩れてしまった祈りの祭壇をもう一度建て直すことのできたイスラエルの民にまことの神に対する信仰の回復が与えられました。
さまざまな神の祝福を受けることにもなりました。
私たちのうちにもあるかもしれない心の偶像、ある人にとってはお金、あるひとにとっては配偶者や子供などが偶像になっているかもしれません。
神に対して、はっきりとした態度をとりましょう。

以上になります。
どうか、父なる神と主イエス・キリストが、あふれるばかりの祝福と平安とをあなたがたに、与えてくださいますように。(Ⅱテサロニケ1:2)

今週の聖歌♪ 新聖歌420
夕立のごと 天つ恵みを
イエスよ今ここに 注ぎ給えや

知恵を求めたソロモン [チャペルタイム]

みなさん、再び、こばにちは。ぶぅでございます。
今日は、咳がひどかったので、お仕事お休みしちゃいました。
カフェなのですが、お菓子を作ったり料理したりするので、容易に咳ができないのです。
ってことで、今日は2個目の記事アップです。
今回は、黒田明先生です。

聖書箇所=Ⅰ列王記3:5~14
説教題=知恵を求めたソロモン
中心聖句=あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。(ヤコブ1:5)

今回、みなさんと考えたいテーマは、「祈り」です。聖書の中には神さまに祈った人の話がたくさんでてきます。例えば、旧約聖書の中にアブラハムという人がいましたが、彼のとりなしの祈りは有名です。甥のロトが住んでる町ソドムが滅ぼされてしまうことを知ったアブラハムが心を痛め、助けてくださるように、何度も何度も神さまに祈ったこの記事、この時の彼の祈りは、すぐに祈ることをやめてしまいやすい、すぐにあきらめてしまいやすい私たちにとって、失望しないで祈り続けることの大切さを教えているのではないでしょうか。

今回のところには、ダビデの息子、ソロモンが次のイスラエル王位継承者となったときの祈りが取り上げられています。
ある日、神さまがソロモンの夢の中に現れ、「ソロモンよ。あなたに何を与えようか。願え。」と言われました。このような神さまからの問いかけに対して、ソロモンは、真っ先に神の民イスラエルのことを考えました。彼はこう言っています。
「神さま。あなたは私を王とされました。しかし、私は年が若くて、何もわかりません。ですから、どうぞ、この民を正しく治めていくことができるように、私に知恵を与えてください。」
ソロモンは、神さまが委ねてくださった「この国、この民」のために必要と思われるもの、しかもそれを悪い動機からではなく良い動機・純粋な動機から彼はそれを祈り求めたのです。

10~14節には、ソロモンの祈りに対する神さまからの応答が記されています。それによると、7神さまは彼の願いどおりに知恵を与えてくださいました。さらには、彼の求めなかった富や名誉や長寿、そうしたものまでもが与えられました。
しかし、だからといって私たちはここから、私たちの祈った祈りがすべて「即時即応」になるということを期待してはなりません。というのも、いろいろなケースがあることを聖書は教えているからです。
「すぐにOK」のときばかりでなく、「すこし待て」のときがあり、「忍耐強く待て」のときがあり、さらに「NO」のときがあります。
例えば、パウロを例にとると、彼の祈りはそのとおりによく聞かれました。彼が祈ると、そのとおりになったのです。しかし、彼には肉体的に一つの悩みがあり、そのことでも彼は真剣に祈りました。祈り続けました。その答えは「よし、治してやろう」ではなく、「わたしの恵みはあなたに十分である」というものでした。けれどもパウロにとってそれがどんなに大きな慰めになったか。というのも彼はかつて、それは厄介な病気、ご奉仕をする上でのマイナスというふうに考えていたからです。しかし、主はその弱さを通して、ご自身の力を発揮してくださいました。弱さこそが、主の力のすばらしさが現れる舞台になるのです。さらには、癒しだけが主の栄光ではなく、この地上にあっては病気の者を病気のままで。主は豊かに用いてくださいます。こういったことが、彼にはわかったからです。
さて以上のことから、きょうは神さまからの祈りの応えというのは、まるでジュースの販売機のように、ボタンを押せば、自分の望みのものがでてくるというたぐいのものではないということをみてきました。私たちは、つい、神さまを自分にとっての都合の良い自動販売機にしてしまいがちです。しかし、私たちはもう一度祈るということがどういうことなのか。日々の信仰生活、祈りの生活の中で教えられながら、少しずつ成長していくものでありたいと思います。

以上になります。ここまで読んでくださりありがとうございます。
「私たちは、いつもあなたがたすべてのために神に感謝し、祈りのときにあなたがたを覚え、絶えず、私たちの父なる神の御前に、あなたがたの信仰の働き、愛の労苦、主イエス・キリストへの望みの忍耐を思い起こしています。(Ⅰテサロニケ1:2~3)」

今週の聖歌♪ 新聖歌196
「祈れよし道は 暗くあるとも
祈れすべてを 主の手に委ねて」

サムソン [チャペルタイム]

みなさま、またまた遅れまして、こばにちは。
ぶぅです。
ぶぅは最近、って言っても、去年の9月ですが、免許をとりまして。
ですが、危ないっていうのと、心配っていうのがあって、しばらくは母に助手席に乗ってもらっていました。先月からカワチと職場(車で約10分)、教会は一人で行けるようになりました♡
そして、なんと!!今日は!!一人で!!真岡に行ってきます。
まだ、バック駐車ができないので、ほんと行くだけですが←
はい。行くだけです。一回りして帰ってきます。
がんばれ、ぶぅ!!
そんなノリに乗っているぶぅが、今日もやりますよ!!はい、チャペルタイム要約です。
今回は、黒田眞琴先生です。

聖書箇所=士師記16:4~22
説教題=サムソン
中心聖句=私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)

士師記に登場するリーダー、士師は12人おり、サムソンはペリシテ人の国境近いイスラエルのダン族に属する12番目の士師です。彼は、父マノアと、長らく不妊であった母との間に待望の第一子として生まれました。その経緯は士師記13章にあります。あるとき、主の使いが、母に現れ、言います。「生まれてくるその男の子を生涯のナジル人(聖別された者)として育てなさい。」と。
主の使いは母になろうとしているこの女性にお命じになったのです。
長らく不妊で、祝福されない女性とされてきた彼女は、一気に、神に仕えるナジル人の母とされるのです。
さて、こうして月日がたち、確かに主の使いが告げられた通り、母はみごもり、男の子を産みました。名前はサムソン(意味は「太陽の人」「太陽の子」または「破壊的」「強健な」)とつけられました。ナジル人については、民数記6章に詳しく記載されていますが、サムエルは①お酒を飲まない②汚れたものを食べない③髪の毛を切らないという3つの約束を守ること、これらを幼少のころより、両親から学び、育てられていったのです。
こうして神の選びの中育てられたサムソンには、特別な賜物が与えられていました。それは、人並み外れた、超自然的な力、怪力という賜物です。また、他の士師たちと違うのは、他の士師たちが民を率いて外敵と戦うのに対し、サムソンはたった一人で多くの敵を悩ましました。
様々なエピソードが聖書に記載されていますが、物語の主人公としては非常に魅力的です。
しかし、イスラエルの信仰的リーダーとしては、必ずしも褒められた点ばかりの士師ではありませんでした。彼には決定的な弱点があったのです。
1つ目は、彼には自己中心的な幼児性があったということです。
彼は自分の感情をうまくコントロールすることができなかったのです。14章にこんな記載があります。ある日彼は、ペリシテ人の娘に出会います。一目見てすっかり気に入ったサムソンは、家に帰ると父と母に「ティムナであったペリシテ人の娘を妻にしたい」と言い出します。
当時のイスラエルでは、まことの神を知らない者との結婚が禁じられていましたから、両親は反対しました。するとサムソンは駄々をこねて、強引に自分のわがままを通し、結婚してしまいます。
結局、自分の感情をコントロールできない彼の結婚生活はうまくいかなかったのですが、これも神の御手の中のことだったのです。

二つ目の弱点は、女性の涙に弱いということです。
彼は、デリラというペリシテ人の女性と出会い、彼女を恋慕うようになります(16章)けれども、残念ながら、デリラにはサムソンへの愛はなかったようで、報酬につられてサムソンの弱点を探るために、サムソンと共にいました。
サムソンは何度もデリラにせがまれ、彼女に、ナジル人としての秘密を教えてしまいました。
サムソンはペリシテ人にとらえられ、両目をえぐりだされ、足かせをはめられ、ついに牢の中で臼をひくという非常に悲惨な結末を迎えるのです。その引き金となったのは、異性に対する彼の弱さと何度騙されてもそこから学習しない彼の未熟さでした。

ここで確認しておきたいことがあります。
サムソンはナジル人としての契約のゆえに、神から特別な力を与えられていましたが、それは単に髪の毛に力の源があったわけではなく、神が共におられるゆえの力であったということです。
サムソンにとって、この投獄の日々は決して無駄ではありませんでした。
そして、聖書は、この悲惨な状況の中にあっても「サムソンの頭の毛をそり落とされてから、また伸び始めた」と光を与えています。
彼は、ここで、今までの自分自身を神の前に深く悔い改める機会を与えられました。
彼は自分の力にうぬぼれ、だんだん自分勝手になってしまっていたことを悔い改めました。
彼は祈りました。「サムソンは主に呼ばわって言った「神、主よ。どうぞ私を心に留めてください。ああ神よ。どうぞ、この一時でも、私を強めてください。」と。

このサムソンの真実な悔い改めと祈りに、神は確かにお応えくださいました。
悔い改めて神に立ち返ったサムソンを、神は豊かに赦してくださったのです。
それだけでなく、神は彼を再び立ち上がらせ、士師として豊かに用いてくださいました。

私たちはここに「神のあわれみ」を見ることができます。
どんなに失敗の多い私たちでありましても、悔い改めて、神に立ち返るならば、神は悔い改める者を顧み、その関係を回復してくださるのです。
私たちは神によってのみ強められる存在であり、この地上にあって神の民として雄々しく証しの生活ができるのは、この神によって強められているからなのです。このことをしっかり心に覚え、私たちの意思をもってこの神に従っていきたいと思います。

以上になります。中心聖句をまた書いて終わりにしたいと思います。
『私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)

今週の聖歌♪ 新聖歌357
「わがより頼む主は 委ねたる身と魂を
守り得給うと 確信するなり」

ギデオンの召命 [チャペルタイム]

みなさん、またまた遅れましてこばにちは。
ぶぅでございます。
ぶぅ、最近、読書をすごい勢いでしております。
一日に一冊は読んでます。
でもね、クリスチャンブックじゃないの。
今読んでるのは、浅田次郎さんの「壬生義士伝」です。
新選組の吉田貫一郎さんのお話です。面白いですよ。浅田次郎さんは読みやすくて好きです。
ちなみにいままで読んで一番好きな浅田次郎小説は、「一刀斎夢録」です。
やっぱり新選組の斎藤一のお話です。
はい、くだらない話をごめんなさい。
チャペルタイム要約入ります。
今回は黒田眞琴先生です。ありがとうございます。

聖書箇所=士師記6:1~24
説教題=ギデオンの召命
中心聖句=神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。(Ⅱテモテ1:7)

本日は士師記に登場する5番目の士師であり、マナセ族のギデオンについて学ばせていただきたいと思います。ギデオンの名前の由来は「伐採者」「切る者」です。
勇士として知られるギデオンですが、その性質は元来臆病で、どちらかといえば、内向的な性質であったようです。神の選びによって当時イスラエルを荒らしていたミデヤン人と戦い、ギデオン生存中は、イスラエルは安定していました。残念ながら彼の死後、民は偶像礼拝に戻ってしまいましたが。

さて、士師記の時代についても学びの前に確認しておきたいと思います。この時代のイスラエルは、モーセやヨシュアのようなイスラエル全部を導くような主の器が現れない、異民族の侵略に苦しんだ時代でした。そして、この時代、危機に際して主が立てられた士師たちが、それぞれの信仰で民族を開放する働きをしていったのでした。実は、士師の中には信仰の確信も勇気もないような人物も含まれていて、まさにギデオンがそうだったのです。ミデヤン人の支配下、ギデオンは現実から逃げるような生活を行っていたのです。主はそんな、真逆ともいえる性質の人物を「解放者」としてい用いてくださいました。
主に背く民をご自身に立ち返らせるために、主はミデヤン人にイスラエルを攻めさせました。助けを求める民に応えて、主はギデオンを選ばれたのです。11~12節をご覧ください。ギデオンはミデヤン人から隠れて小麦を打っているような臆病な人でしたが、主は彼を将来の勇士として見ておられました。ギデオンを選ばれた主は、彼を「勇士よ。」と呼んでくださいました。
主は、私たちの中にも「勇士」を見ておられます。
私たち自身は、周りの人々からの評価や過去の成績、経験から自分自身を目積もりしてしまいます。けれども、神は私たちの能力や経済力、おかれた環境、実際の年齢などすべてを全く無視されたように、全然違う私たちを見ておられるのです。それを掘り出していただくには誇りも卑屈も捨てて、そのままの自分を、神に差し出すことが必要です。そうするなら、私たちではなく、キリストが私たちのうちに生きてくださるのです。
ギデオンについてまとめてみます。
ギデオンは士師として神からの特別な召しをいただいた人物のひとりでした。けれども、召された当初の彼は勇敢な信仰者でも、従順な信仰者でもありませんでした。むしろ、信仰は逃げ腰で、性格は少々へりくつぎみでもありました。それらは、たとえば、主の使いとの対話の中で、神への不満、神への抗議を訴えている13節や、しるしを見ない限り、決して神からの約束を信じることができないと言っている17節、また36節から40節においても同じで、このような彼の信仰的弱さや性格的短所が出てきている言動を私たちはここに見ます。
そんな彼に対して、神はどのように対応されたのでしょうか。実はギデオンの弱さも短所も含め、神はギデオンをあるがままで召してくださったのです。そして、加えて、必要な知恵や力、また愛は神が与えてくださいました。こうして、神によってギデオンは整えられていったのです。つまり、神に用いられる器は金の器や、銀の器という特別な器ではなく、むしろ土のようにもろいけれども、神によってそこに火が通され、また清められた器、私たちであるということを、本日は特に覚え、神の私たちへの恵みのお取り扱いに感謝し、「主よ、どうぞ、私を用いてください」と祈るお互いでありたく思います。

以上になります。
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
(テサロニケⅡ 1:2)

今週の聖歌♪ 新聖歌390
「いざ揚げよ 主の御旗を いざ叫べ 主の道を
いざ仕えん 永遠に われらの主なるイエスに」

神の国にふさわしい人(パリサイ人と取税人の祈り) [チャペルタイム]

みなさん、こばにちは、ぶぅでございます。
更新遅くてごめんなさい。
ぶぅは今生活習慣改善中です。
2,3日前まで、夕方の6時に寝て、夜中の1時とかに起きて、お菓子を食べて、うつらうつらしてという、よくわかんない生活リズムをしていました。
5時ぐらいになると、何事にも集中できなくなっちゃって、いいや寝ちゃえ!!ってなってたのです。。。が!!、最近顔にニキビが。。。やばいくらい増えちゃって(-_-;)
これはだめだっと思い、おとといから、頑張って10時近くまで起きて、朝は7時に起きるという生活リズムに変えようと、頑張っております。

それはさておき、ごめんなさい、先週の日曜日のチャペルタイム要約です。
今回は黒田明先生です、ありがとうございます。

聖書箇所=ルカの福音書18:9~14
説教題=神の国にふさわしい人(パリサイ人と取税人の祈り)
中心聖句=神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。(詩篇51:17)

きょうのところには、二人の人が登場してきます。パリサイ人と取税人です。イエスさまは、このたとえ話にふたりの人物を登場させ、対比させながら、どういう態度が神に受け入れられるのかを教えています。ある日のこと、パリサイ人と取税人がお祈りをするために神殿へとやってきました。すると、目立ちたがり屋のパリサイ人は、きれいな服を着て、いかにも自信ありげな様子で神殿の中に立ちました。実は、彼は他の人に教えられるくらい聖書をとてもよく勉強していました。それにいつも人のお手本になるようなよい行いもしていました。とりわけ、貧しい人たちへの施し、1日3回の祈り、また一週間に2度の断食をきちんと守ることでは、誰にも負けていませんでした。それはそれで確かに立派なことですが、彼の悪いところは、そういったよい事をわざと人の見えるところでしていたということです。イエスさまはある時、「よい事は人に知られないようにしなさい。右の手がする事を左の手に気づかせないくらい、よい事はこっそりしなさい。」とおっしゃいました。
ところが彼は、人に褒められたい、人に見られたいという思いから、よい事をしていました。
この日も彼は、遠くのほうに取税人が立っているのを見て、心の中で「神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。」とお祈りしました。
一方、取税人は神殿のすみに立ち、うなだれたまま悲しそうに自分の胸をたたいて、祈りにもならないような祈りをしました。
「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」
当時、ユダヤはローマの支配下にありました。そして取税人の仕事はというと、ローマに納める税金を同胞のユダヤ人から集めるというものでした。しかし彼らは、必要以上にお金を取り立てては自分のふところを肥やしていたのです。ですから、取税人というと人々から大変に嫌われていました。
ここに登場する取税人は、パリサイ人の彼とは全く対照的です。自分の罪深さを知っていました。自分に失望し、こんな救われがたい自分を神に救っていただきたいとの魂の叫びが、「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。」ということばになって、出てきたのです。

ところで、イエス様は誰を対象に、このたとえ話をされたのでしょうか。それは「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たち」にです。また、このたとえ話は、パリサイ人と取税人との姿を例にとって、私たちにも「ふたりのうち、あなたはどちらに似ているか」を自問自答させようとしているのではないでしょうか。私たちにとって遠慮がちで謙遜な取税人は共感を誘います。一方、うぬぼれきった誇り高いパリサイ人には深い反感を感じます。しかし、「神さま。このパリサイ人のような人間でないことを感謝します」と言っている自分があるとするなら、それこそこのパリサイ人と少しも変わらないのではないでしょうか。
「感謝」は祈りの大切な要素の1つですが、人を見下したり、敬虔さのひけらかしによって生じる感謝は、神に受け入れられるものではありません。他人を自己の優越感の引き立て役にする人、みてくれの敬虔さをひけらかす人は、神に受け入れられないのです。
では、どういう人が神に受け入れられるのか。このたとえ話の取税人の祈りは、自分をほかの人と比較せず、短くも「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」というものでした。どんなに短くても、彼の祈りは神としっかりつながっていました。しっかり繋がっていたからこそ、憐れみ深い神に自分の弱さをさらけ出し、自分の罪を言い表すことが、できたのです。
一方、パリサイ人の場合、彼の祈りは神への祈りの形をとっているかもしれませんが、実はほかの人々にそれを聞いてもらいたがっているだけにしかすぎなかったのです。彼は神にしっかりとつながっていなかったので、自分の弱さを隠し、自分の罪を取り繕う生き方しかできずにいたのです。
私たちの祈りが人や人の評価につながってしまうのではなく、憐れみ深い神にしっかりとつながっていく、そういうものでありたいと思います。

以上になります。
父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。(第Ⅱテサロニケ1:2)

今週の聖歌♪ 新聖歌449
「父なる御神に 今帰らん
この世を後ろに われ帰らん
帰らん帰らん われ帰らん
神よ愛の手 伸べ給え」

しきりに願う祈り [チャペルタイム]

みなさん、遅れましてこばにちは、ぶぅです。
日曜日ですね。相変わらず更新が遅くてごめんなさい。

さて、昨日は鹿沼・栃木・益子合同青年会でした。
赤ちゃん含めて、10人が集まりました。
赤ちゃんは最後のほうにちょこっとだけど。
11時に集合し、バターチキンカレーを作りました。リーダー大活躍でした。
めっちゃ頼りになる!!
そして、ごはん食べながら、映画鑑賞。「ソウルサーファー」を見ました。
泣くのを我慢するの大変だった。
勇気がでました。みなさんも見てみてちょ。
そのあと、ルカの6:27~36を輪読し、分かち合い。
節ごとに、感想を言い合ったのですが(参加は8人)、本当にいろんな意見があって、考えがあって、思うところがあって、自分のうわべだけ拾った意見が恥ずかしかったです。
でも、勉強になりました。

てことで、チャペルタイム要約入ります!!
今回は黒田明先生です。
聖書箇所=ルカ11:1~13
説教題=しきりに願う祈り
中心聖句=わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。
そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。ルカ11:9~10)

よく言われていることの1つに「祈りとは、神さまとの会話である」というのがありますが、本当に
そうだなと思います。祈りとは、神さまとの会話であって独り言ではないと思うのです。
あなたの祈りは独り言ではないと本当に確信をもって言えるでしょうか。私があえてこのようなことを申し上げるのも、「私の毎日の祈りは、本当に神さまとの会話になっているだろうか」と自問自答していただきたいからです。
たとえば、あなたが誰かと会話しているとして、あなたのほうから一方的な話が始まるまではいいとしても、自分の話が終わってしまうと、相手からの返事を待たずに立ち上がってどこかへ立ち去っていくというようなことがあるでしょうか。そんなことをしたら相手に対して失礼になると思います。
ところが、祈りという神さまとの会話になると、そういったことを平気でやってのけてしまう方々がかなり多いのです。例えば、子どもたちの祈りはたいていそうです。目の前においしそうなごちそうが並んだりすると、一刻も早く食べたいという願いから早口な祈りになったり、口先だけの感謝になったり。そのわりには「アーメン。いただきます。」という言葉だけには、嬉しい正直な子供たちの気持ちが込められている。けれども、そこには神さまからの語り掛けに耳をかそうとする思いや時間や祈りのもう一つの側面などそういったところの意識が、残念ながら彼らはまだ薄いのです。

そこで、もう一つ確認しておきたいのですが、ことらから一方的に語り掛け、またお願いするだけでは会話になっていません。むしろ神さまがこの私に何を語り、何を示し、何を求めておられるのか。そういうところに耳を傾けながら、しっかり聞くという態度を持ち合わせていることが、本来の祈りであるということをいつも忘れないようにしたいと思います。


祈りについて、私たちは多くのことを学ぶ必要があると思うのですが、今回は集中してなされる祈りの大切さをごいっしょに学んでみたいと思うのです。
現代人の悩みの一つに、心を集中することができにくくなっているということがあります。多忙のあまり、あれやこれやと心が分散してしまって、一つのことに心を傾けるということができにくくなってしまっていると思うのです。なお、このことは祈るということにもあらわれているのではないでしょうか。例えば、デボーションをしている最中に歯磨きや爪切りのこと、掃除洗濯のことなどがふと気になりだすと、デボーションに集中できなくなり、ときにデボーションを中断してしまうこともあるわけです。

今回のところですが、ここはイエスさまの模範的な祈りと、また大事な祈りの態度についてが取り上げられています。「主よ。私たちにも祈りを教えてください」と弟子のひとりにお願いされたとき、こう祈りなさいと教えてくださったのが、「主の祈り」です。ここには祈りについてきわめて大事なことが教えられています。別なことばを使えば「心臓を強くして頼み込む」ということになります。私たちが心をかたむけ、集中的に何かをしようとするとき、一所懸命になります。そして気が付いたら恥も外聞も捨てて、なりふりかまわず行動していたということがよくあるように、それこそ祈りも真剣になればなるほど、普段、気にしがちな自分の体裁もどこへやら、それこそ正直な、時に涙と鼻水の出る、ときに神さまに喧嘩を吹っ掛けるような祈りにもなっていくのではないでしょうか。
今回のイエスさまの教えはすぐに祈ることをやめてしまいやすい、またあきらめてしまいやすい、私たちに対して、失望しないで祈り続けることの大切さが教えられていると思うのです。
さらには、私たちの求めに対して、神さまは喜んでそれを与えてくださるお方でもあるということが教えられていると思うのです。もう一つ大事なこと。私たちがこの地上で何より求むべきは聖霊である、ということを、13節から伺い知ることができるのではないでしょうか。
喜びあるクリスチャン生活、勝利あるクリスチャン生活の秘訣は、聖霊にあるということを覚えて、それこそ真剣になって聖霊の満たしを、聖霊の導きを求めようではありませんか。聖霊が私たちを内側から励まし、私たちを祈り続ける者へと変えてくださるからです。

今週の歌♪ 新聖歌196
祈れよし道は 暗くあるとも
祈れすべてを 主の手に委ねて

あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。(マタイ6:6)
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