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神なき人間社会の実態 6/11 [チャペルタイム]

みなさま、本日三度目、ぶぅでございます。
あした、ぶぅは、作業所の活動日で、映画とショッピングに行ってきます。
映画は、「メアリと何とか」と「銀魂」と「ポケモン」と「パイレーツオブカリビアン」からそれぞれ選べます。ぶぅは「パイレーツオブカリビアン」です。姉いわく「フォーエバーたこ」です。
楽しんできます!!

では、チャペルタイム要約です。
今回は、ひっさびさに、明先生です。

聖書箇所=創世記4:17~26
説教題=神なき人間社会の実態
中心聖句=見よ。心のまっすぐでない者は心高ぶる。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。(ハバクク2:4)

創世記の前半には「宇宙や地球の始まり」であるとか「人類の始まり」さらには「罪の始まり」や「人類最初の殺人事件」までもが取り上げられています。今回はそれ以降の出来事として、神さまを神様としてあがめず、感謝もしない人間の姿、神さま中心でなくなった人間社会がどうなっていったのかを、教えられたいと思います。

まず、注目したいのは、カインから5代目に当たるレメクという人物についてです。19節。彼は「二人の妻をめとった」とあります。これは何を物語っているのか。
神さま抜きの人間社会が、快楽主義に向かっていったことを私たちに教えてくれているのではないでしょうか。神様を神様としてあがめず、感謝もしない者にとっては、神さまのみこころなどどうでもよいことであり、また関係のないことでもあるわけですから、一切は「自分の気の向くまま」「思いのむくまま」という傾向があるように思われます。

次に注目したいのは、レメクの子どもたちについてです。20~22節。ヤバルは家畜を飼う者の先祖となりました。また、ユバルは、立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となりました。また、そして、レメクにはトバル・カインという息子もいて、かれは青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋となりました。要するに、ヤバルは家畜家、ユバルは芸術家、トバル・カインは化学技術者のはしりとなったわけです。
おそらくヤバルは家畜家として、大地の恵みを大いに利用しながら、その生活を豊かなものにしていこうと考えたに違いありません。また、ユバルは芸術家として、人間の心を豊かなものにしていこうと考えたに違いありません。そしてトバル・カインは、知恵を使って人間の暮らしに必要なあらゆる道具を発明していったに違いないのです。
けれども、彼らは神さまを神さまとして心からあがめず、また感謝もしない人たちでしたから、当然のこと、彼らの築き上げた人間社会は、神中心とはならずに人間中心となりました。
そして、それは今日も同じです。人間は自分たちの生活、自分たちの心、自分たちのすべてを豊かなものにしていくことを願っています。けれども、すべての大前提は神さま抜きの人間社会であって、21世紀を迎えた今日、神さま抜きの人間社会はいよいよ栄えてきました。今や、世界は核兵器の時代、科学万能の時代とまで言われているわけです。しかしながら、これらの化学や学問がはたして本当の意味で、人間を幸福にしてくれていると言えるのでしょうか。私たちの生活はいろいろと便利になりました。けれども、その反面、地球規模の異常気象や環境問題、核兵器の問題、あるいはいのちにかかわる問題も含めて、私たちは今までにない大きな不安を抱え込む結果を招いてしまったのではないでしょうか。

私たちは、神さま抜きの人間社会がどのようになっていくのかみてきたわけですが、最後に25~26節をご覧ください。ここには神さまを中心とする小さな群れが登場してきます。そして、この小さな群れから、実にあの有名なノアが生まれ、また信仰の父であるアブラハムへとつながっていきます。世の中がどんなに神さま抜きの社会であったとしても、私たちは決して世に流されず、むしろ信仰をもって神の真理に生きていくまた神の恵みに生かされていくものでありたいと思います。

以上です。ここまで読んでくださりありがとうございます。

今回の聖歌♪ 新聖歌421
「答え給え 主よ 祈るわれらに
民の眠りをば 覚ます雨もて」

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「礼拝のこころえ」No.7~8 [週報ミニコラム]

みなさん、こばにちは、ぶぅです。
しょっぱなから、ごめんなさい!!
5月の前半の週報、間違えて捨ててしまったらしく、21日と28日のしかありません。
申し訳ないですー(;´・ω・)
では、5月後半ミニコラムです。

No.7 「礼拝の実際」①前奏「礼拝は前奏と共に始まっている。だから、期待をもって、5分前には静まる。前奏は、礼拝出席者が神ご自身に心を向ける時。具体的には、A.前奏の少し前から話をやめ
、B.黙とうの姿勢で、C.祈り心と期待を持つ。これらの姿勢をもって、私たちは前奏において、神ご自身に心を向ける。

No.8 「礼拝の実際」礼拝順序について②招詞「招詞とは神がこの礼拝に私たちを招いておられることの宣言。」私たちは招きのことばである招詞から、礼拝される方はどなたで、どのようなお方か、礼拝するとは、礼拝者とは等みことばから確認しつつ、自分が神によってここに招かれて来ていることを自覚して感謝し、礼拝の心構えが与えられる。
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驚くべき出来事 6/4 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。ぶぅでございます。
ぶぅは、作業所で利用者として働いているのですが、時々考えます。
どうして、こんなに恵まれているのだろうと。
仕事の内容も、職員やほかの利用者との関係も、ぶぅが昔のままだったら、きっとうまくいかなかったと思うのです。神様が、最善を為してくださり、助けてくださり、必要なときに、必要なものを与えてくださり、そうして、今のぶぅがいるのです。
当たり前の日常が、当たり前じゃなくなるとき、神さまへの感謝が溢れます。

てことで、いきなりチャペルタイム要約入りまーす!!

聖書箇所=使徒の働き2:1~13
説教題=驚くべき出来事
中心聖句=酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)

1節に「五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた」とあります。「五旬節(ペンテコステ)」とは「五十日」目の祭りという意味で、過ぎ越しの祭りの翌日の除酵祭から数えて7週目のことです。それでこの日は「七週の祭り」と言われます。この日は「初穂をささげる刈入れの祭り」「小麦刈りの初穂の祭り」と言われるとおり、小麦の初穂をささげる感謝の日で、過ぎ越しの祭り、仮庵の祭りと共に、ユダヤ人男子がエルサレム神殿に巡礼しなくてはならない三大祭の1つでした。そのため、主イエスが過越祭に十字架につけられて以来、最もにぎわった日だったのです。
エルサレムが最もにぎわう、皆が最も宗教的な思いに集中する時刻に、「みなは一つ所に集まっていた」というわけです。その集会中の信徒全員に、聖霊が下られ、その全員が語りだしたのです。

彼らはイエスの約束を信じ、一つ所に祈っていました。すると、約束の聖霊が確かに降ってこられました。しかも、聖霊は不思議な2つのしるしを伴って弟子たちのところに、降ってこられたのです。
第一は「突然、天から、激しい風が吹いてくるような響き」です。これは耳に聞こえたしるしです。
第二は「炎のように分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった」ことです。このしるしは、目に見えるしるしで、正しく訳すと、「火のようなもろもろに舌が分配されて現れた」となります。
旧約時代、聖霊はギデオンやサムソンという特定の個人にしか注がれていませんでした。けれども、今や聖霊はイエスを信じるすべての人の上に注がれる時代なのです。しかも、その聖霊はまるで炎のようなお方として、救霊の情熱を私たちに与え、また私たちの内にある罪汚れを焼き尽くす、きよめてくださるお方なのです。

「響き」も「舌」も聖霊そのものではなく、しるしです。「他国のことばで話しだした」のが「聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおり」であることが、これによって示されたのです。これは大事なことです。キリストが教会に約束された御霊は、ただ下っただけで何もなさらないというお方ではありません。約束の聖霊は、キリストのことを語り出させる霊、証しの霊でした。「『私は信じた。それゆえに語った』と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊をもっている私たちも、信じているゆえに語るのです(Ⅱコリント4:13)

そして、このペンテコステの聖霊は、どういう形で語られたのかについても確認したいと思います。まず第一に「大勢の信頼すべき人々に」対してなされたとあります。5,6節をご覧ください。聖霊の存在と働きを信じる「ユダヤ人」、特に「敬虔な」まじめな人物たちです。第二に、彼らは「天下のあらゆる国から来て住んでいた」人々でした。人種から言えば、生粋の「ユダヤ人もいれば」、異邦人の「改宗者もいる」という具合です。
第三に別の種類の人もいたと記されています。「あざける者たち」です。天下の各地から移住・旅行してきた人々は驚嘆しましたが、ユダヤ育ちの人々には、それらの外国語が理解できず、酔った人のたわごとに思えたのです。神の大きな働きを述べるけれども、全会衆にわかってもらうために国際外国語や自国語だけで語るのでもありませんでした。諸外国の色々な国語で語り出す、そんな証言だったのです。

私たちクリスチャンは、内に住んでくださる内住のキリストである聖霊に導かれながら、この御霊に酔うほど満たされながら、人々にキリストを証しするお互いでありたいと思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!!

今回の聖歌♪ 新聖歌415
「主よ天つ御霊を 今日も降し(くだし)給え
ここに天つ炎を 今日も燃やし給え」

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世界のはじまり5/28 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは、ぶぅです。
暑いような涼しいような、ムシムシするような、この季節は嫌ですね。
暑いなら暑い!!涼しいなら涼しい!ムシムシならムシムシ!!となっていてほしいです。
ところで、今回の5月28日の主日礼拝は、初のファミリー礼拝でした。
子どもたち中心です。なので、説教題も「世界のはじまり」です。
ぶぅの姪っ子も一生懸命聞いていました。可愛いなぁ。。。
てことでみなさんも、初心にかえって読んでみよう♡


聖書箇所=創世記1:1~5
説教題=創造の神
中心聖句=初めに、神が天と地を創造した(創世記1:1)

今日は、永遠のベストセラーである聖書の1ページにある1番最初の文、つあmり旧約聖書の創世記の1:1をとりあげます。
1.この文の意味
①神による創造の宣言
②私たち人間へのメッセージ
2.「時間」と「空間」
この短い文には、私たちが知らなければならない2つの要素が含まれています。
それは、「時間」と「空間」です。
例えば座標におきかえてみて、「時間」は横軸に、「空間」は縦軸に設定します。そして私たちの存在を考えてみると、例外なく、私たち人間は、「時間」という横軸と「空間」という縦軸の中に生きていると言えます。ここで大事なことが1つあります。それは横軸と縦軸の接点、つまり原点を確認しておくことです。なぜなら、原点がわからずに、また原点を定めずには自分の位置を知ることができないからです。
そこで、私たちはまず「時間」の原点と「空間」の原点とを探っていきたいと思います。
「初めに、神が」と聖書は言っていますが、これは、初めに存在された神こそが時間の原点であることを意味します。合わせて、「神が天と地を創造した」とありますから、天地万物の創造者であられる神こそが空間においても原点であると思うのです。つまり、私たちにとって、この聖書の神こそが、「時間」と「空間」の原点であると認めたとき、自分の存在の意味や価値が見いだせるようになるのではないかと思います。

3.神に出会うことによる本当の安心
残念なことでありますが、多くの日本人が神を知らない、また知ろうともしないということです。その結果、原点を見失ってしまった彼らは「私はどこから来て、どこへ行くのかわからない」「私は何を見、またどちらの方向へ歩んでよいのかわからない」など、迷える子羊となってしまった彼らは、このように、毎日あてのない日々、喜びのない、生きがいのない日々を送ることになってしまったのです。有名な神学者にアウグスティヌスという人がいます。彼は、「人は神によってつくられた。したがって、神のふところに憩うまでは安きを得ない。」と言いました。神に出会った人だけが本当の意味で、心に平安が与えられる、安心が来るのだ、ということです。

最後に、「創造した」ということばにも注目してみましょう。調べてみますと、ここには、ヘブル語の「バーラー」ということばが使われています。これは無から有を生み出すときに使われる言葉ですから、神は何もないところからでさえ、目に見えるものをお造りになることができるかた、神とはそのような「創造的な」お方であられるということです。しかも、人間は神に似せて造られていると聖書は教えています。ですから、私たち人間も創造的な生き物です。私たちは、毎日の生活の中で、問題に直面します。ときに、そのことで不安になります。けれども、そんなとき、あきらめの人生を決めつけたり、逃避したりしないで、むしろ「神は私に何を望んでおられるのか」という態度で取り組むことができているなら、その積極的な態度こそが創造性を生み出すのです。
これから直面するどんな問題にも、神から知恵、生きる力やっ問題を克服する力を与えていただきましょう。31節には、「神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常に良かった」とあります。私たち一人一人は、神に、「非常に良」く造られたお互いです。互いに尊敬し、互いに神を知ることを喜ぶ、神に知られていることを喜ぶ者でありましょう。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
みなさまの上に、神さまからの祝福がいっぱいありますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌21
「輝く日を仰ぐとき 月星 眺むる時
雷鳴り渡る時 まことの御神を思う
わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を
わが魂 いざたたえよ 大いなる御神を

聖霊降臨への準備 5/21 [チャペルタイム]

みなさん、こばにちは。ぶぅでございます。
暑い日が続いていますが、いかがお過ごし?
イカといえば、ダイオウイカ、かっこいいですよね。
イカじゃないけど、ホワイトタイガーもかっこいいね。
ホワイトタイガーもいいけど、仮面ライダーも捨てがたいよね。
何の話やねん。
てことで、チャペルタイム要約です。

聖書箇所=使徒の働き1:15~26
説教題=聖霊降臨への準備
中心聖句=ですから、兄弟たちよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたことを確かなものとしなさい。(Ⅱペテロ1:10)

聖霊降臨の準備として、私たちは二つのことを聖書から見ることができます。一つは祈り会が開かれていること、もう一つはユダに代わる使徒が任命されたことです。
1.祈り会の開催
屋上の間に120人程の兄弟姉妹たちが集まりました。今は、行動力が評価される時代です。けれども、神の働きを進めるには、行動する前に祈ることが必要です。この120人の祈り会から、3つのことを学びたいと思います。
(1)イエスの命令に対する従順な姿勢
イエスは「エルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい」と命じられました。
当時弟子たちは非常に危険な状態にありましたが、イエスの言葉に従ってエルサレムにとどまりました。
(2)一致した祈り
14節をみると、120人は、「みな心を合わせ、祈りに専念」していたことがわかります。
(3)神への期待感
祈っている弟子たちの間には、父の約束がもうすぐ与えられるという期待感が満ちていました。
期待感のない祈りには、力がありません。皆さんは、行動する前に、お祈りをしていると思います。けれども、その祈りは期待感に満ちた、期待にあふれるものとなっているでしょうか。
2.マッテヤの任命
次は使徒の補充についてです。
ペテロは聖書を引用して、使徒の補充について、熱く語りました。そこから3つのことを学びます。
(1)使徒補充の理由
12使徒のひとりであったユダが脱落したこと、これが直接的な理由です。では、彼はどこから脱落したかというと、第一に、彼はその仲間から脱落しました。聖書辞典によりますと、彼は一人だけが、ガリラヤ出身ではありませんでした。ということは「自分だけ出身が違う」という孤独感や疎外感がユダのなかにあったのかもしれません。私たちはここから、ちょっとした違いが、ある人たちにとっては、孤独感や疎外感になる可能性があるのだということを意識して配慮する必要があることを学びます。
第二に、ユダはその務めから脱落しました。当時彼は、12使徒の中でも重要な人物の1人、会計係であったのです。ところが、いつしか彼は不正を行うようになり、とうとうその務めからも脱落していきました。サタンはイエスの身近にいた使徒をも誘惑するのです。
第三に、ユダは、その職務からも脱落していきました。ユダには使徒職としての地位が与えられていたのに、カミ(神)よりもカネ(金銭)の魅力に負け、後にイエスを裏切り、敵に売り渡します。こうして彼は、神からの尊い職務からも脱落していきました。

ところで、使徒補充にはもう一つの理由があります。それは、使徒補充は神のみこころであるというペテロの聖書理解と深く関係しています。その根拠として、詩篇のことばを2つ引用しました。
詩篇69:25、109:8です。
特に後半のみことばに照らして考えたとき、ユダに代わってひとりの使徒を補充することは主のみこころであるとの確信をペテロは持ったのです。ここから、私たちクリスチャンは、すべての行動や決定の基準を聖書に求めるという基本的な態度を学びたいと思います。
(2)使徒の務めと資格
使徒とはイエスが選んだ12人の弟子たち、つまり、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとトマスとマタイ、ヤコブとタダイ、シモンとユダ、バルトロマイを指しています。
彼らがなぜ使徒として選ばれたのか。マルコの福音書には「ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられた」とあります。彼らのうち、7人は漁師、ある者は取税人、ある者は政党員でした。他の箇所には「無学な普通の人」と呼ばれている人もいます。このように見ていきますと、彼らが選ばれたのは、彼らに良き資質があったからではなく、無から有をお創りになる主が、ご自身のお望みになる者を選んで、新しい創造をなさろうとしたのではないかと思われます。ヨハネの福音書15:16からは、私たちが救われたのも、私たちの立派さとか、救われる水準に達していたからとかとは全く無関係で、ただただ一方的な神の恵み、主の先行的選びによったのだということがよくわかります。
次は、使徒の資格についてです。
22節。イスカリオテのユダを欠いた今、使徒補充の条件として、ペテロはここで2つのことを示します。1つには、主イエスの直弟子であるということ、もう一つは、主イエスの復活の目撃者であるということ。そして、この2つの条件に適っていたのが、バルサバと呼ばれるユストというヨセフと、マッテヤのふたりであったのです。
(3)使徒補充の方法
使徒を選ぶにあたり、使徒たちはまず祈りました。主の助けと導きを求めたのです。そして、彼らは次にくじを引きました。この方法は当時のユダヤ人の間では、当たり前のことでした。
くじはマッテヤに当たり、彼が12使徒のひとりに数えられることになりました。けれども、こうして選ばれた彼も、そのほかのほとんどの使徒たちの名前も働きについても、聖書は何も触れません。彼らは立派に働きを為したに違いないのです。そして、このことは、私たちの教会にも言えることです。たとえば、週報に名が記されている人だけが奉仕しているわけではないことを、私たちはよく知っています。むしろ祈りをもって奉仕している方々の労により、奉仕者も教会の業も支えられ、進んでいくのです。
ユダは使徒として召しを受けながら、自ら滅びを招いてしまいました。召された者、選ばれた者には忠実さが求められます。私たちも神にこの忠実さを祈り求めつつ、共に歩ませていただきましょう。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
みなさんの、一日が神さまの守りのなか、祝福の中、過ごせますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌266
「日もすがら証せん 夜もすがら主をほめん 「御救いは妙なり 御救いは奇し」と」

キリストの証人となるために5/14 [TOP]

みなさま、遅れすぎましたが、こばにちは。
げんきですかー?!
夜中です。昨日ぶぅは、多分7時ちょっとすぎに寝ました。この時間に起きちゃうの当たり前ですね。
そうそう、ちなみに、チゲってのどがひりひりするって皆さんご存知?
辛いのよ。
てことで、チャペルタイム要約入りまーす

聖書箇所=使徒の働き1:3~14
説教題=キリストの証人となるために
中心聖句=しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒の働き1:8)

本日の中心聖句を1:8としましたが、この聖句は本書(使徒の働き)全体の中心聖句と言ってもいいというほどの重要な聖句です。まさに聖霊こそが、宣教の力、聖霊こそが教会と信仰者の原動力、信仰と宣教の力の源であることを私たちは本書から知るのです。

早速「キリストの証人となるため」に必要なことを学ばせていただきたいと思います。
本日の聖書箇所は4月の最後の単元でも学んだところですので、重なる部分もありますが、確認していきましょう。3~5節に「大宣教命令」6~11節に「復活の証人となる」ことが、そして12~14節には「心を合わせて祈る弟子たち」の姿が記されています。
本書はイエスの復活から昇天までの40日間についても語り、詳しくこの間起こったことを記録しています。そしてよみがえってくださったイエスが弟子たちに伝えようとした最も大切なこと「神の国」について伝えます。
弟子たちの理解の有無にかかわらず、まさにまもなく彼らは神の国を拡大する働きに参加しようとしていました。そのためには、どうしても、聖霊の満たしが必要でした。この聖霊無しには勝利ある働きをすることは誰にもできないからです。聖霊は私たちに神のために働く力と神の言葉を理解する力とを与えられるのです。

1.聖霊に満たされることの必要を知ること
キリストの証人となるために、私たちはまず、聖霊に満たされる必要を知らなければなりません。皆さんは、聖霊の助けがなければ、私たち一人ひとりがクリスチャン生活を送ることができないことをご存知ですか。この世に生まれ、この世に生きてきた私たちは、一歩間違えると、クリスチャンまがいの生き方を自分の力でできてしまいます。けれども、それは自分の力でのまがい物、似ているようでも偽物の生き方です。自分の力でしますから、頑張りすぎては疲れ決心してもまた同じところに逆戻りしてしまいます。私たちはすでにこの世の者ではなく、神の国に生きる者です。神の目で見、神の心で感じ、神の思いを私の思いとして生きる者です。まがい物ではなく、それらしい生き方でもなく、キリストにある本物の生き方をさせていただきたいと思います。主権は用いてくださる神にあります。

2.聖霊の満たしを祈ること
「聖霊の助けなしには私はクリスチャンとして、生きられない」という事実を知り、聖霊に満たされることを祈りましょう。主の復活の事実は、弟子たちの信仰とその姿勢を激変させました。聖霊が与えられ、聖霊によって力を得た彼らの確信に基づく行動が歴史をも変えたのです。私たちも内に住んでくださる聖霊によって支えられ、助けられて、私たちでなければ行けない所に遣わされ、私たちでなければできない働きに用いていただけるのです。「聖霊の満たし」を信じて、祈りもとめましょう。

主の復活証人となるため、「聖霊の満たしの必要を知」り、「聖霊の満たしを祈り」「さらに祈る」者であることについて学びました。私たちは、聖霊の満たしの必要を今日確認しました。次になすことは、聖霊の満たしを祈りつつ、さらに神の家族と共に、祈り合って、進んでいくだけです。そして、この世にあって、キリストの証人として用いていただきましょう。
主は、私たちの祈りに必ず応えてくださいます。私たちの内に住まわれる聖霊が、事を成してくださり、私たちをキリストの証人としてくださるのです。

以上になります。ここまでよんでくださりありがとうございます。
ところで、いきなり画面が小さくなってしまったのですが、どうしたらいいのでしょう。。。

今回の聖歌♪ 新聖歌136
「聖霊よ降りて 恵みの雨に
渇ける心を 潤し給え」

「礼拝のこころえ」No.1~4 [週報ミニコラム]

礼拝のこころえ
No.1 「礼拝とは何か」①礼拝とは「始めであり、終わりである」礼拝は一週間のすべて。霊とまことをもって礼拝をささげることが一週間の勝利の歩みの保証で、一週間が終わったと言える程大切である。

No.2 「礼拝とは何か」②礼拝とは「礼拝」である。礼拝は神に向けられるもの、相手は人ではない。聖日、私たちは神を礼拝するために教会に来るのであり、説教を聞くことだけが目的ではない。真に神を礼拝した結果として喜びがある。自分を喜ばせることを第1にしてはならない。「教えられた」に留まらず、あなたの生活にそれを適用せよ。

No.3 「礼拝とは何か」③礼拝とは「ささげるもの」である。信仰全般はもともと「受ける」ことと「ささげる」ことの二つの面がある。私たちの課題は二つを調和できず、「受ける」ことに傾き易い。礼拝は、1週間の始めにあたり、私たちが神に対して「ささげる」時。礼拝プログラムは,
そのために準備された道筋。「心・時・財」をささげるとき。

No.4 「礼拝の実際」①定まったプログラム準備により「私たちの霊性や日常生活の姿勢が整えられる」礼拝プログラムが、私たちの霊性や生活全体に及ぼす影響は意外に大きい。私たちは聖日毎にこの順序に身を置くことにより、毎日の生活に安心と落ち着きを得ている。

天に昇られたイエス(4/30) [チャペルタイム]

みなさま、本日二度目登場のぶぅでございます。
今日で、益子は陶器市が終わります。
毎回毎回、すごい賑わいです。益子の道の駅も人が多くて、屋台がでてました。
道の駅のアイスおいしいよ。
ぶぅの点字仲間の方も、陶器市に出しているということで、一度覗いてみたい気がするのだが、あの賑わいの中を歩く勇気が出ないという。
怖いじゃん!!ぶぅは運動神経が悪いから、人ごみ行くと、ぶつかりまくるのだ!!
よけられないのだよ。てことで悲しいのでちゃぺりたいと思います。
てかね真琴先生のチャペルタイムはいつも、6ページくらいあったのだけど、今回から、2枚で収まってるんです。でもね文字が小さいの(笑)なんだか、可愛らしいのよねー、真琴先生って。

聖書箇所=使徒の働き1:3~14
説教題=天に昇られたイエス
中心聖句=しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)

今回までの主題「十字架と復活」の最後の学びとして、「天に昇られたイエス」について学びます。
イエスの昇天が私たちクリスチャンにとってどのような意味があるか見ていきたいと思います。
本日の聖書箇所には3~5節に「大宣教命令」6~11節には「復活の証人となる」ことが、そして12~14節には「心を合わせて祈る弟子たち」の姿が記されています。
「大宣教命令」はマタイ28:18~20、マルコ16:15,16、ルカ24:46~48にも記されているイエスの弟子たちへの宣教命令です。使徒の働きの冒頭は、著者を同じくするルカの福音書の最後と重なっていて、宣教の派遣と主イエスの昇天が改めて記されています。特にここで気が付くことは、マタイ、マルコには書かれていなかったイエスの御命令があるということです。それが待機の命令でした。(ルカ24:49)、(使徒1:4)待機の命令の重要さは、後の教会における聖霊の働きの現実から、私たちは、その恵みをしることができるのです。
人は「いつ」や「どのような」にこだわるものです。いつこの人は救われるのか、いつ教会は成長するのか、どのような組織がいいのか、どのような方法でなのかなど。それに対するすべての答えが使徒1:8の派遣のことばです。それは「聖霊が臨まれるとき」なのです。すべての答えは聖霊の働きにあります。

イエスの昇天を目撃した弟子たちには祈ることが必要でした。彼らはあまりにも忙しく、立ち止まることすらできない中にありました。イエスご自身がされていたように、彼らにも、私たちにも、主の働きを続けるため立ち止まり祈る時が必要です。
イエスの昇天によって、弟子たちには希望が与えられました。そして、彼らは「待ち望む信仰」を持つようになったのです。彼らは二つのことを待ち望みました。一つは聖霊が与えられることです。
聖霊が与えられるとは、目に見える形ではなく、もっと親しい方として、もっと近く、心の中に入ってくださるということです。それは「インマヌエル」「神が共におられる」恵みを表しています。
もう一つは、イエスがもう一度地上に来られる「再臨」を待ち望む信仰です。イエスは弟子たちの目の前で、天に帰って行かれました。これは弟子たち一人ひとりにとって、再臨が必ず起こる事実として心に届くためでした。このような「再臨」を待ち望む希望が、弟子たちが困難な中でも信仰を持って歩む支えとなったのです。私たちも日々の様々な困難、問題の中で生きています。イエスが来られる時、かならず正しい裁きをしてくださる、フェアな正しい判定があるという信仰が私たちを支える大きな力になります。

イエスがこの地上に来てくださったことを「受肉」といいます。神であった方がこの地上に下ってこられ、私たち人間と同じ肉体をもって生きる者となってくださったのです。これこそ、キリスト教の中心です。これほどまでも私たちは神に愛されているのです。万能の神、無限の力をお持ちの神が有限の時間や空間に左右される立場になってくださったのです、それは、すべて、私たちのためでした。
またイエスが復活された時のからだは復活のからだでした。ドアを通り抜けたり、エマオの途上では
急に見えなくなったりしました。そして、天に帰っていかれたのです。イエスが天に帰られ、今度は聖霊が私たちと共にいてくださる恵みの時代が来ました。今まで時間、空間に縛られていたイエスがそれらから自由にされたのです。イエスが自由に働かれる恵みの時代です。
天において、私たちのためにとりなしの業をしてくださるイエスは、今も「人」として私たちの痛みも困難もすべてわかってくださるお方です。そのお方が私たちのために聖霊を送ってくださり、共にいてくださる恵み。そして聖霊はイエスご自身でもありますから、いつも一緒にいてくださるインマヌエルの神なのです。

弟子たちにとってイエスの昇天とは、「聖霊を待ち望む」「再臨を待ち望む」信仰をいただくために、どうしても必要なことでした。すでに聖霊が与えられている、今を生きる私たちにとって、主の復活の証人として生きることが望まれています。いいえ、すでに、みことばの約束があります。「私たちは証人」なのです。
私たちはいつでも、「私のための十字架の死と復活」を確信しましょう。私たちは、すでにいただいている聖霊に助けられながら、聖霊の満たしを求めましょう。そして、日々再臨を待ち望みながら、イエスの証人として、神の家族のお互いと共に祈りつつ過ごしましょう。
私たちはこれらをキリストの名によって求め、この世にあって地の塩、世の光としてその務めに励んでいきたいと思います。私たちの内に住まわれる聖霊が、必ずこれらのことをなさせてくださいます。

以上になります。神様の祝福と愛が皆様の上にあることを感謝します。

今回の聖歌♪ 新聖歌429
「地の塵に等しかり 何一つ取り得なし
今あるはただ主の 愛に生くるわれぞ
御救いを受けし 罪人に過ぎず
されどわれ人に伝えん 恵み深きイエスを」

エマオへの道で(4/23) [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。ぶぅです。
今日は、日曜日ですね。
今日から、新しい教会プログラムが発動します。
司会、感謝祈祷に加えて、新しく、聖書朗読や教会学校、受付、聖餐準備など、それぞれ役割を担う感じで、やっていきます。あ、あれ?第五週だったかな。。。
ファミリー礼拝というものもスタートします。いつだったかは忘れました♡
てことで、チャペルタイム要約です!!

聖書箇所=ルカの福音書24:13~35
説教題=エマオへの道で
中心聖句=「彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。」(ルカ24:31)

私たちはいま、「十字架と復活」という主題をいただき、「主イエスの十字架による救いと復活を信じる」という目標のもと、聖書からの学びを続けています。
福音書を比較しますと、それぞれ、独自の視点から主イエスの復活の出来事を記していることに気づきます。また、用いられるエピソードも少しずつ違っていますので、復活当日とその後の40日間の出来事を正確に辿ってみようとすると、大変な作業になります。
今回は、主イエスの復活に関して、ルカの福音書からエマオに向かう弟子たちの記事を取り上げます。この聖書から、私たちは、教会において、主イエスを深く知り、また主イエスを深く覚えるため、私たちの信仰をつよくするために大事なことを学びたいと思います。

第1に、「聖書に親しむこと」第2に「主の聖餐を重んじること」第3に「復活の主イエスとの個人的出会いを分かち合うこと、つまり復活の主を証しすること」です。
今日の聖書箇所を見ていきます。
13~24節には「私たちと共に歩んでくださる主」のお姿をみることができます。
13節の最初に「ちょうどこの日」とあります。これは、「主イエスがよみがえられた日」十字架の出来事から3日目の日曜日の午後のことです。その日エルサレムから11キロ離れたエマオという村に向かう二人の弟子がいました。二人の弟子は主イエスを失った悲しみと失望、さらにはそのイエスが復活したとのうわさに対する戸惑いがあったことが想像できます。
道々、主イエスの復活の出来事について話し合い、また論じ合っていた二人に、復活のイエスご自身が近づいて、共に歩んでくださったのです。私たちの主は、人生の様々な場面で私たちと共に歩んでくださるお方です。

次に25~31節には、「目を開いてくださるイエス」の姿を見ることができます。
27節には、イエスが霊的真理へと弟子たちを導くために、最初に聖書のみことばを用いて、ご自身がメシヤ(救い主)であることを彼らに解き明かされました。3年半の弟子たちとの生活で、いつでもイエスはこのように語られ、教えられたのだと思います。主はなおも先に行く様子をお見せになりましたが、これはたぶん弟子たちが自分たちから主のことばを求めるようにとのチャレンジであったと考えられます。弟子たちはイエスを引き留め、主に宿泊し、共に過ごすことを求めました。30節には、今度はパン裂き(聖餐式)が用いられたことが記されています。食卓の席でイエスはパンをとって祝福して裂き、彼らに渡されました。この二人の弟子たちは最後の晩餐の席にはいなかったと思うのですが、イエスと共に過ごした彼らにとっては見慣れた光景であったと思うのです。
イエスは、このように目に見える恵みの手段をも用い、ご自身がメシヤであり、その救いが、確かなものであることをわからせてくださったのです。
最後に、32~35節をご覧ください。ここには「引き返す弟子たちの姿」があります。急に見えなくなったイエスに驚きながらも、彼らは互いに心が燃えていたことを分かち合います。33節には「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻って」とあります。彼らは宿泊することもやめて、燃える心を抑えられず、「すぐさま」行動を起こすのです。

主イエスはそれぞれの弟子の必要に応じて近づいてくださる方です。様々な理由により弟子たちの集まりから離れてしまった弟子たちに、他の弟子たちと共に復活の主にお会いできずに信じることができなかったトマスに、主は一人ひとりをそのまま受け入れ、ふさわしい方法で導いてくださいました。私たちにも同じ愛をもって日々導いてくださっています。この主と同じ心で、互いに愛し合い、祈り合い、支え合う神の家族でありたいと思います。

以上になります。
みなさまのうえに、神さまの愛が、たくさん降り注ぎますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌251
「主イエスの御許に 慰めあり
憂いも悩みも 消え去るべし
贖い主よ われをそこに
かくまい給え 御恵もて」

復活の主(礼拝日4/16) [チャペルタイム]

みなさん、おくれすぎましたが、こばにちは。
ぶぅでございます。
GWですね。どっか行った?
ぶぅは、3日の日に、井頭公園のボート乗り場でスマホ落としました。
池汚いのね。落ちたスマホ見えなくて、拾えなかったので、機種変しました↓↓
スマホなくしたの、今年に入って二回目です。ぶぅに、連絡がつかないって人がいたら、ごめんなさい。
反省しまーす。。。
てことで、チャペルタイム要約入ります。

聖書箇所=ヨハネの福音書20:1~23
説教題=復活の主
中心聖句=私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。

イースターおめでとうございます。キリストは私たちの罪のために死なれました。そして、私たちを義とするためによみがえってくださったのです。イースターの聖書箇所は、四福音書の最後にあるヨハネの福音書20章です。
きょう、私たちは聖書から二つのことを学びたいと思います。
一つ目は、私たちのために。罪の贖いとして、十字架の上で死んでくださり、死に打ち勝って復活された主は、今も生きておられるということです。そして二つ目は、主の十字架の贖いによって新しいいのちをいただいた私たちは、このイエスを信じる信仰こそが永遠のいのちへの道であるということを伝える者とされているということです。

誰にも必ず訪れる「死」という問題に対して、私たちは本当に心の準備ができていると言えるでしょうか。私が卒業した神学校で、よく言われてきたことがあります。それは「説教」と「引っ越し」と「死ぬこと」の3つの準備についてです。
1つ目は『語る準備、つまりいつでも召された者として福音を伝える、説教する準備』です。二つ目は「引っ越しの準備、つまり、遣わされたら、いつでも、どこにでも、主がお入用なのですと言われた場所に即座に従い、出て行く準備』です。そして最後は『死ぬ準備、つまり、主に召された働きのために殉教する覚悟で働く準備』です。この3つの備えは、地上の私たちのいのちの最期を思い、物も人間関係も整理して、過ごすことにも通じているようにも思えるのです。

信仰においても、私たちのなすべきことは、第一のことを第一にして、神からのみ豊かな恵みをいただく決心をすることだと思います。
十字架で死んでくださったキリストによって罪を贖われた私たちは、もう「しなければならないという」律法から解放され、自由にされています。そして、こんなにも愛してくださる神からの恵みに感謝して、「神のために生きたい、神のお役にたちたい」と考える、恵みに生きる者とされているのです。
病院の病室に「4」という番号がないことからもわかるとおり、人間は死という現実から目を背けたい、考えたくないと思っています。けれども、「生、けれどもいずれは死ぬ者」という人生の基本図式から逃れられる人はひとりもいないのです。
ところが、そんな私たちのために愛の神が救い主イエス・キリストをこの地上に送ってくださいました。私たちの身代わりとしてのキリストの十字架の死と神によるキリストの復活とが「死、けれども最後は勝利」「死、けれども最後は永遠のいのち」という新しい人生図式をくれたのです。
つまり、イエス・キリストを信じる者にとって、もう、死は恐ろしいものでも、敗北でもなくなるのです。死は栄光の輝きに満ちた主にお会いできる時となります。その上、キリスト者には、すでに主を信じて召された愛する者たちと、やがて天国で再会できるという希望が与えられているのです。

安息日の翌日の明け方、ペテロとヨハネはからっぽの墓を「見て、信じた」(8節)のです。ただし、彼らは聖書のことばを十分理解していなかったとあります。マグダラのマリヤはからっぽの墓を見て、泣いていて、近くにいてくださったイエスのことさえわからないでいました。イエスはわからなかったマリヤを責めることはされませんでした。かえって、優しく名前を呼んでくださったのです。(16節)そして、その日の夕方、よみがえられた主は、弟子たちに「平安があなたがたにあるように」(19節)と言われ、「弟子たちは、主を見て、喜んだ」(20節)のです。
続いて、イエスは、もう一度彼らに言われました。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」(21節)。
弟子たちを平安の祈りと共に派遣された主は、私たちをもそれぞれの家庭や職場や学校、地域に、親族に、友人知人のところに遣わしてくださる主です。そのために、聖霊による助けをいただくようにとも教えられます。(22節)復活の主の恵みを人々に語るのは、贖われた私たちの使命ですが、私たち人間だけの力ではできない、大きな働きなのです。聖霊の助けなしには人は救われないからです。イースターを迎えた私たちは、きょう、復活にこそ、真の希望と力があるということ、そして、主を常に仰ぎ見る信仰こそが、喜びあふれる平安な信仰生活の秘訣であることを覚えたいと思います。

以上になります。
みなさまの上に、神さまの豊かな祝福がありますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌127番
「陰府(よみ)より帰り 死と悪魔に勝ちし 君こそ勝利の主なれ 君こそ真(まこと)の主なれ
ほめよイエスを われらの神を」
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