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聖霊によって大胆に語りなさいせり 8/6 [TOP]

みなさま、こばにちは。ぶぅでございます。
フォークとバナナはお元気ですか。
ぶぅは、元気です。
チャペルタイム要約入ります←

聖書箇所=使徒の働き4:23~31
説教題=聖霊によて大胆に語りなさい
中心聖句=彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4:31)

この世で権威のあるとされている議会から迫害と禁止令を受けたクリスチャンがとった態度から、本日も、私たちのあるべき姿勢を学ばせていただきます。

本論Ⅰ.ペテロとヨハネとその仲間たちの行動(23~24節)
解放されたペテロとヨハネが、最初にしたこと、それは23節。「ふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した」ことです。ここから彼らの性格と生活には教会生活が常に結びついており、まるで空気や一日三食の食事のように、これなしには生きていけない程になっていたことがわかります。
報告を受けた人々の反応は「みな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った」とあります。この人たちの中では、祈りがすぐにでてくる程身についていた様子が伝わってきます。このような、麗しい聖徒の交わりと祈りの中から出てきた彼らの応答は、権威ある議会からの禁止令に屈することなく、反対に「みことばを大胆に語り出した」という結果になったのです。

本論Ⅱ 大胆に語り出した理由(24~28節)
神の主権と大能(たいのう、偉大な能力・力)への全き信頼と賛美ーこれこそが大胆な宣教には絶対に必要不可欠です。けれども、私たちの神が絶対的主権者であられるなら、なぜ私たちが迫害されたり、脅かされたりするのでしょうか。疑問が起こってきます。実は、主権的な神は、「聖霊によって」預言しておられるのです。詩篇2篇のメシヤ預言がそれです。「メシヤ(油注がれた者)」の由来はこの2節からきています。ここに引用されたのは、その前半の神とメシヤに対する世界的反逆の場面です。けれども、詩篇2:4にはこのような世界的反逆に対して、「天に座する者は笑い、主は彼らをあざけられるであろう」と歌います。
迫害の中でも、大胆に神のことばを語ることができる第一の理由がここにあります。

本論Ⅲ 一同の祈りとその結果(29~31節)
一同の祈りは、「迫害をやめさせてください」とか「迫害にあわせないように」というものではあり
ませんでした。
第一は、「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になっ」てください(29節)でした。
第二の祈りは、「あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください」です。
ギリシャの昔から、人間の自由はまず言論の自由にあるとされてきました。「大胆」とはその言論の自由のことです。

ここで伝道する私たちには二つの自覚が必要です。①この大胆さと自由さは、クリスチャンが神の「しもべ(奴隷)」であり、神のご用に働く以外、何の自由も生活もないことから生まれること。②私たちの伝道の働きも、「みことば(神のことば)を語らせて」いただく神の代弁者に過ぎないという認識から生まれること。
祈って、聖霊に満たされること、これが、神のみことばを大胆に語るために絶対必要条件なのです。

以上になります。ここまで読んでくださりありがとうございます。
みなさまに、神さまの祝福がいっぱいありますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌415
「恵み深き御神よ 昔ありし如く
われらひとりびとりを 今日も満たし給え」

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礼拝のこころえ No.13~No.17 [週報ミニコラム]

みなさま、こばにちは。ぶぅでございます。
昨日あたりから、急に寒くなりましたね。
秋きたのかな。秋きたのかな。
夏すぎた?というか、あの、風がすごいんですけど。
台風?

今回は、週報ミニコラム7月分です!!

No.13「礼拝の実際」礼拝順序について⑤交読文「私たちの心が神の恵みと語り掛けに開かれるため、主を仰ぎ、恵まれて祈祷するため、会衆一同がキリストにある交わりの喜びを経験するために必要です。」会衆全員で聖書朗読をしてきた私たちの教会プログラムにはありませんが、今後、導入を検討しても良い要素かとも思われます。

No.14 Ⅰコリント14:15,40
「礼拝の実際」礼拝順序について⑥司会者祈祷(1)「礼拝の祈祷は私的な祈りではなく、公の祈りです。」内容は①賛美と感謝②霊的祈願③とりなしと具体的祈願。公祷は、霊の流れを留めないために長すぎず、内容もふさわしさが必要です。主への賛美と感謝の後、礼拝者の信仰と霊性、心身のきよめを祈り求め、とりなしへと進みます。

No.15「礼拝の実際」礼拝順序について⑥司会者祈祷(2)「礼拝の司会者祈祷は公の祈り」内容と順序:A 賛美と感謝 B 霊的祈願 C とりなしと具体的祈願。C詳細:礼拝そのものと奉仕者のため、病床にある方、苦難の中にある方のため、他教会のため、求道者や幼子のため、教会所在地と日本の救い、宣教師のため。

No.16「礼拝の実際」礼拝順序について⑥司会者祈祷(3)「司会者祈祷は会衆を代表する祈り。」会衆の心がけは、A私が祈っているという自覚を持つ。B祈りに心を合わせる。Cヘブル語で「仰せのとおり」、「しかり」という、意味の「アーメン」に「私も同意します」「そうあることを願います」「本当にそうです」の気持ちを込めてはっきりと!

No.17「礼拝の実際」礼拝順序について⑦使徒信条(1)4つのクレドー(我信ずの意味)ともいわれる。これは告白、証し、うなずきである。」まず、神に対する告白であり、人に対する証しであり、自分に対するうなずき。信仰者は、この信仰をもって救われ、保たれ、歩んでいる恵みを自覚しながら、心からのアーメンをもって唱える。

以上、7月分、ミニコラムです。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
みなさまに、神さまの祝福がたくさんありますように。

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屈してはなりません 7/30 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。
ぶぅでございます。
少しずつアップしております。
今回は第五週目の日曜日ということで、栃木教会の方と合同礼拝でした。
1人しかいらっしゃらなかったけど。
なんだっけな、楽器をお持ちになって、少し披露していただいたのですが、なんて楽器だったかな。
中国のなんですよ。なんだっけ。にこ?みたいな名前だった気がする。
機会があったら、合同楽器隊が作れると楽しいですね。
てことでチャペルタイムです。

聖書箇所=使徒の働き4:1~22
説教題=屈してはなりません
中心聖句=この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

前回、私たちは、足の不自由な男性のイエスの御名による癒しについてのペテロの説教から学びました。その説教の結論は「選民の光栄を知り、宣教の責任を果たすこと」の勧めでした。今回はその続きとして、ペテロの説教に対するイスラエルの指導者たちの応答から、私たちのなすべきことについて学ばせていただきます。

1.使徒たち逮捕の理由(1~4節)
彼らを捕らえに来た者たちは「祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たち」でした。23:8の「サドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていた
」ように、第一の逮捕理由はサドカイ人にとって「死者の復活を延べ伝えているのに、困り果てた」からでした。また、サドカイ人の中には「祭司たち、宮の守衛長」もいました。「宮の守衛長」は、大祭司の次に権力を持つ祭司で、神殿の治安を守り、秩序を維持する責任を持っていました。ですから、許可なく、多くの群衆を集め、神殿内で集会をするということはゆゆしき事だったのです。つまり、第二の理由は神殿の治安維持のためでした。

2.使徒たち逮捕の結果(4~22節)
4節には男性だけで5000人が信仰に入ったとあります。彼らは目の前でペテロたちの逮捕と連行を目撃し、もし仲間に加わるなら自分の身にも危険が及ぶことがわかっていました。けれども、ペテロの明快な福音を聞き、悔い改めて信仰に入った彼らは、本物の信仰者となったのです。人ではなく、奇跡でもなく、聞かされた「みことば」が彼らを救ったのです。私たちもまたきよい生活の実が実っていないからとしりごみせず、神のことばを語るべきです。この神のみことばが人々を信仰に導くのです。
続いて5節以降です。ペテロとヨハネが逮捕された翌朝、サンヘドリンと呼ばれる議会が招集され、民の指導者、長老、学者たち、さらに大祭司アンナスやカヤパと大祭司の一族等、当時のユダヤのおもだった人物が集まりました。「長老」とは一般民衆の伝統的代表者、「学者」はパリサイ人です。ですから、逮捕の理由を復活反対というサドカイ派特有の教理的な理由にはできません。そこで議会の尋問は、「あなたがたは何の権威によって、また、誰の名によってこんなことをしたのか」という文言に代わってしまいました(7節)
①「こんなこと」とは癒しの奇跡②「なんの権威によって」は「何の力によって」という尋ね方で、律法に照らしてという合法性よりも奇跡の力の正体です。③そして「だれの名によって」は当時迷信や魔術が流行しており、迷信深い古代の人々の間では、「だれの名によって」奇跡を行うかが大問題だったことを示しています。
ペテロたちにとってはマイナスに見えた逮捕が、かえって議会の人々にイエスの福音を語る絶好の機会になりました。ペテロは聖霊に満たされて大胆に答えます。
①の「こんなこと」に対しては、9節「私たちが今日~」とペテロの答弁は続きます。昨日逮捕された時のように、神殿の秩序を乱したとか、死人復活の有無とかでなく、「このこと」だけが問題なら、それは「良いわざ」「いやされた」出来事でのことです。そして、当然ながら良いわざにつて調べられ罰せられるはずがないのです。②の「何の権威(力)によるか」に対しては、「この人が治って~(10節)」と答えます。ユダヤ教最高権威が殺したけれども、神が死者の中から復活する力を与えられたイエス・キリスト、権威も死さえも上回る神の力がこの奇跡をもたらしたのです。
③の「だれの名によるか」には、「ナザレ人イエス・キリストの御名による」と大胆に答えます。
聖霊に満たされると、この世の権威や権力を恐れなくなるのです。

2つの結論。
第一に「この方以外には、誰によっても救いはありません。」この「救いはイエスの御名によってのみ与えられる」という確信に立つことが私たちには必要です。また、私たちの伝道が「よいわざ」であるとの保証が私たちには必要です。これは私たちがこの恵みの中にいるという確信から出てくるものです。神の家の一員となる救いは、神の家のかしら石イエス・キリストの名によってだけ与えられます。
第二に、イエスが神のかしら石なのですから、救われる人は必ずイエスに連ならなければなりません。イエスを「十字架につけた」あなたも、この石を「捨てた」「あなたがた家を建てる者たち」も、悔い改めてクリスチャンにならなければなりません。

議会はペテロたちについて幾つかの事を知ることになります。①「ペテロとヨハネの大胆さ」です。彼らの大胆の秘訣は、8節にあります。聖霊の満たしが彼らを大胆にしたのです。
②「ふたりがイエスとともにいたのだ」ということ。彼らの大胆さは、イエスから与えられた力、イエスが送ってくださった聖霊による力によったということです。世界の歴史は、しばしば偉大な国王や指導者によって左右されます。けれども、神の恩寵の世界は小さな、無名な、けれども聖別された人々、聖霊に満たされた人々によって証され、進展していくのです。
私たちは順境の時も逆境の時も、常に聖霊に満たされ続け、きよめられ続けていくことを求めながら、主を証ししていく群れとされていきたうと思います。

以上になります。神様が皆様と共にいてくださいますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌415
「主よ 天つ御霊を 今日も降し給え
ここに 天つ炎を 今日も燃やし給え」

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ザアカイ 7/23 [チャペルタイム]

今回はファミリー礼拝です。
子どもたち中心になって、神さまに捧げています。
賛美も「ワワワいっしょに」と「ハハハレルヤ」です。
去年の鹿沼・栃木・益子合同賛美集会のときに、踊った曲なので、今回も踊りながら賛美しました。
でも、結構忘れちゃってて(;´・ω・)もう一回練習して覚えようと思います。
子どもたちも、踊りながら賛美したほうが、喜びあふれて、神さまにも喜ばれると思うので。
みなさん、ヨーグルト好きですか。
チャペルタイム要約です。

聖書箇所=ルカの福音書19:1~10
説教題=ザアカイ
中心聖句=人の子は、失われた人を探して救うために来たのです。(ルカ19:10)

本日の箇所は、「人の子は、失われた人を探して救うために来たのです」との主イエスのおことばで終わるエピソードです。
最初に取税人について確認しておきましょう。
ザアカイは「取税人の頭で、金持ちであった(2節)」と記されています。取税人のかしらだったので裕福になったことが8節により裏付けられています。
取税人は、当時イスラエルを支配していたローマ帝国から託されて、人々から税を徴収する任務にあたっていました。それだけなら必要な役割で問題はありません。ただ、当時は、誇り高いユダヤ人にとって支配者の手先として税の徴収に当たる職業は蔑むべき仕事とされていたのです。
1.ザアカイの努力(1~4節)
ザアカイはそのような取税人でした。仕事に徹し、町の嫌われ者となりながらも、いつしか心の葛藤を抱えていたのでしょう。
自分の住むエリコの町に、近頃評判の若手宗教家がやってきたとのうわさを聞き付けたザアカイは一目見ようと出かけていったのです。群衆が詰めかけていて、背の低いザアカイには何も見えず、考えた末いちじく桑の木の上に登ったのでした。そこまでしてイエスを見たい何かがザアカイの心の中にはあったのです。話題の人物を見たいというだけなら、主イエスが声をかけることはなかったと思います。ザアカイは自分の人生に不足している何かを求めていたのです。

2.イエスのよびかけ(5~6節)
通りかかったイエスはいちじく桑の上のザアカイに目をとめ「ザアカイ」とその名を呼びました。
神は創世記のアダムとエバの時から、常に私たちを探し、時には名指しで呼びかけ、私たちの欠けや飢え渇きを満たそうと出会ってくださるのです。信仰は神の呼びかけに誠実に応えることから始まるのです。

3.出会いの結果(7~10節)
イエスを自宅に迎えいれたザアカイは、イエスの導きのもと新しい人生に出会い、その決意を財産の放棄をもって表明しました。彼の財産のほとんどは「だまし取ったもの」でありましたから、その4倍と財産の半分とを合わせるとほとんどの財産を放棄したことになります。けれども、財産の放棄は救いの条件ではありません。救いの結果です。ザアカイは失われていた自分自身をイエスとの出会いによて見出すことができました。いいえ、神によってザアカイが見出されたと言ってよいでしょう。イエスとの出会いこそ人生の転機となるのです。

以上になります。
ここまで読んでくださりありがとうございます。
子どもたちに、神さまの祝福が豊かにありますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌165
「御座にいます 子羊よ ほむべきお方
あなたは統べ治める 永遠に正義をもって」

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選民の栄光と責任 7/16 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。ぶぅです。
相変わらず、こんな時間にアップです。アップアップです。
寝ようよって話よね。いや、寝たいんだけどさぁ、、、目がさめちゃったんです。
昨日は、8時には寝てましたね。うん。もちろん、夜の8時ですよ!!
朝の8時に寝て、夜中の12時に起きてたら、病気よね。
続きまして(?)、要約です。

聖書箇所=使徒の働き3:11~26
説教題=選民の栄光と責任
中心聖句=私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。(Ⅰペテロ1:3)

本日の聖書は、先週学びました「足の不自由な男性の癒しの奇蹟」に基づく、ペテロの説教の記述です。この説教には3つのことが論じられています。第一はこの男性の癒しの奇蹟の原因、第二は、それに基づく選民イスラエル人への勧め、第三は、選民の持つ特別な栄光と責任についてです。

1.奇跡の真の原因
「アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの先祖の神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。(13節前半)」どのようにでしょうか。それは16節に説明されていて、13節後半から15節は、イエスについての挿入となっています。
この挿入文は、①イエスを殺したイスラエルの罪深さ:つまり、まず選民は、異邦人「ピラト」でさえ、「釈放すると判決した」イエスを「拒んだ」次に、「人殺しの男」バラバと「いのちの君」とを取り換えた。最終的には「いのちの君を殺す」ことによって自ら「人殺し」の仲間入りをしたことで極悪の罪を犯したことを説明します。
②イエスの栄光を主張。「そのしもべ」「きよい方」「正しい方」「いのちの君」。ペテロはこのようなメシヤ称号を用い、イスラエルが殺したイエスの栄光を力説します。

「神がそのしもべイエスに栄光をお与えになった(13節)」ことは「神がこのイエスを死人の中からよみがえらせた(15節)」ことを含んでいます。イエスの復活は、イエスにメシヤの栄光が与えられていることの最上の証拠であり、ペテロたちも「そのことの証人です」と明言します。
実はこの2つは、同じことを言っています。イエスの復活があったからこそ、イエスが今も生ける御力を発揮して、この足の不自由な男性を、「強く」「完全」な命へと救ったのです。けれども、この男性を「イスラエル人」の前で癒したからこそ、復活のイエスの栄光は、「私たち」クリスチャンだけでなく、「あなたがたがいま見て知る」ことができる証拠となったのです。イエスの復活とは、このように死んだイエスが、今も生きて働いておられるという現実の証拠により説明されることです。

2.選民イスラエルへの勧め
19節の「そういうわけですから」は17,18節に悔い改めの理由が述べられていることを表します。それは、「あなたがたも」「指導者たちと同様に、無知のためにあのような行いをした」こと(17節)で、神の方では「キリストの受難をあらかじめ語っておられたことをこのように実現された(18節)のです。無知のゆえに、あなたがたと指導者が考え違いをしていたのです。これが、悔い改めるべき理由であり、「罪を拭い去っていただく」ことができる希望の根拠でもあります。
私たちも以前は神の預言や契約を知らないゆえに、キリスト教に無関心であり、冷淡な者でした。ですから、知って悔い改めた今は、神の赦しと愛と恵みの中にいるのです。
悔い改めの目的は、「主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。(20節)私たちは罪の呵責や神の罰により、心が常にストレスにさらされていましたが、悔い改めて、神を信じたときに、それがゆったりと息をつける平安と慰めに代わったのです。

3.選民の光栄と責任
イエスが、イスラエルの同胞としてイスラエルに語るために立てられたこと、また、イエスが、イスラエルが全世界の祝福の源となるという契約のために遣わされたこと、この二つの理由から、神がイエスによって全人類を救われる順序がわかってきます。救いは「まず」イスラエルから、次に異邦人にももたらされるのです。けれども、事実は、聖書が記すように、ペテロの勧告は受け入れられず、救いは異邦人である私たちにまで及びました。

「神のいつくしみに感謝し、ここにとどまる」決意を新たにする。
私たちに必要なことは、「神のいつくしみ」に感謝して、そこに「とどまっている」決意を新しくすることです。この恵みを常に覚え、ここにとどまり続け、私たち自身の賜物をもって、神の民としての使命に生かしていただきましょう。復活の主は、今も働き、その力をもって、弱い私たちを立たせてくださるのですから。

以上になります。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。
神さまの祝福がみなさまに限りなくありますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌166
「威光と尊厳と栄誉 光栄と力
ただ主だけを礼拝せよ 天をつくり 支えている主」

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キリストの名によって歩きなさい。 7/9 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。ぶぅでございます。
いつも、夜中です。
ぶぅは、7時に寝て、12時ころ、起きるのです。
コーヒー牛乳がおいしいから。
はまってるんですよ、コーヒー牛乳。
ぶぅの家は、牛乳の消費量が半端ないです。半端ないと言えば、若者は半端ないことを、「パねぇ」というそうで。ぶぅは最初聞いたとき「パないの?ツとかムならある?」て聞いた覚えがあります。
チャペルタイム要約です。

聖書箇所=使徒の働き3:1~10
説教題=立って、歩きなさい
中心聖句=金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。

今日は、「使徒たちによって、多くの不思議なわざとあかしの奇蹟が行われた」と2:43にある、そのひとつの例として、生まれつき足のきかなかった男の人の奇蹟的ないやしが取り上げられています。

1.恵まれた条件(①選民イスラエル②多くの親切な支え③宮に近い場所での生活)
この男の人ですが、4:22によると「40歳あまりであった」とありますから、生まれて40数年間、まったく歩いた経験がなかったことになります。
一見、とても大変に見える彼ではありましたが、実は多くの恵みと祝福を受けていたのです。まず①選民イスラエルであったということ。神はすべての国の人を救うために諸国民の中からイスラエルを選んで、聖なる民として祝福しました。ですから、この男性も神の選びの民として、その特権と恵みとにあずかっていたのです。
②多くの親切の中に支えられてきたということ。生まれつき足がきかなかった彼には「美しの門」という名の宮の門にまで彼を運んできてくれ、彼を助けてくれる人がいたのです。
③宮の門近くに生活できていたということも、恵みであったと思います。詩篇84:10に「まことに、あなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりはむしろ神の宮のかどぐちに立ちたいのです」とあります。この詩篇の作者は、神との生活のすばらしさを強調しています。まさにこの意味で、生まれつき足のきかないこの男性は、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていたのですから、詩篇の作者にとってはうらやましいと思える環境であったのです。さらに考えると、行きたくても年に1回行くのがやっとという多くの人々からみるならば、ずいぶんと恵まれた環境の中にいたと言えます。

2.悲しむべき麻痺(①感謝のない生活②宮へ行く目的のずれ)
しかしながら、神の選び、人々の親切、そして神との生活という数々の恵みと祝福を与えられていたとは言いながらも、そのことに気づかない、感謝することもできず、不自由な自分の身体にだけ心が向いていたならどうでしょうか。このような身体だからしてもらうのが当たり前というふうに考えるようになっていたとするなら、その人の心は麻痺してしまっていると言えるでしょう。
残念ながら、この男性には麻痺の傾向があるように思えます。
彼にとっての悲劇はまだあります。それは目的の勘違いというべきものでした。本来、人々が神の宮へ行くのは、神を礼拝し、神を賛美し、また神に感謝をささげるためでした。ところが、この男性の目的は、そこに集う人たちから施しを求めるためだったのです。彼にとって本当の必要は神からの癒しでした。ひとりで立つことのできる健康な身体になることだったのです。

3.驚くべき主の御業(人生の転機の要因①毎日宮に来ていたこと②主イエスを信じたこと)
ここに、使徒ペテロとヨハネが登場します。二人はこの男性の本当の必要がわかっていました。
ですから、ペテロは彼に向って「金銀は~」と言ったのです。するとどうでしょう。主イエスの御名によって祈り、また宣言されると、すぐに奇蹟的な癒しが与えられ、一人で立って歩ける者となりました。そしてこれこおそ人のあるべき本来の姿ですが、神を賛美する者に変えられたのです。
この男性の変えられた要因についても、見てきたいと思います。
1つ目、毎日宮に来ていたこと。励んで来ていたからこそ、このようなチャンスに巡り合えたのだと思います。私たちも今はよくわからないことに導かれているかもしれません。けれども、神がちょうどよいときにその意味を教え、その忠実さに応答してくださるのです。
2つ目、男性がイエスを信じたということ。これこそ大きな要因です。ペテロから「金銀は~」と言われても「お金がないなら私には関係ない」と考え、信じなかったなら、彼は決して癒されず、また救われることもありませんでした。

結論.クリスチャンの自立は内住のキリストに導かれる歩み
最後に、私たちにとっての「ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」の意味について考え、今日の結論とします。「歩きなさい」は「ひとり立ちしなさい」ということばに置き換えられます。「イエス・キリストの名によるひとり立ち。」つまり、「イエス・キリストにある自立」です。自立した人間とは自分の意志によって動く人のことを指しているように思えます。けれども、クリスチャンは、その自立においても信仰を働かせます。ですから、外の影響によって動くのではなく、単に自分の意志によってのみ動く人でもありません。むしろ、信じる者の内にいます御霊なる神、内住のキリストによって導かれて歩むのです。

以上になります。ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

今回の聖歌♪ 新聖歌361
立て立て 永遠に変わらぬ御言葉を 信じ立て 神の御言葉に立て」

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初代教会の姿 7/2 [チャペルタイム]

みなさま、再びこばにちは。ぶぅでござい。
ぶぅは、肌が弱く、汗をかいたりかかなかったりしたときに、猛烈にかゆくなるのです、
なので、ぶぅの体はあざだらけ( ゚Д゚)でも、かゆいんです↓↓
何かいい方法あったら、教えてください。
てことで、チャペルタイム要約入ります

聖書箇所=使徒の働き2:37~47
説教題=初代教会の姿
中心聖句=そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。(使徒2:42)

本日は、初代教会の姿を3つの角度から見ていきたいと思います。第1や初代教会の入会条件、第2は当時の教会員の教会生活、第3にそれに対する社会の反応です。

1.教会入会のしかた
ペテロの説教は、旧約聖書を引用した講義のようなものでした。面白い例話もなく、美辞麗句もありませんでした。しかし、37節で聴衆は、「心を刺された」とありますように、彼らの理性を説得し、感性にも深く届いたのです。そのため聴衆は、「私たちはどうしたらいいでしょうか」との反応を示したのです。これが私たちの説教の応答でありたいと思うのです。
このような正しい応答を示した求道者に対して、ペテロが示した入会条件は「悔い改めなさい」と「イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい」です。
これら二つの条件を満たした者には、二つの約束が与えられます。「罪の赦し」と「賜物として聖霊を受けること」です。この約束は信じた者にとどまるのではなく、子どもたちも含めて子々孫々に至るまで、また遠くの異邦人に至るまで同じ恵みにあずかれるという慰めが39節に保証されています。
2.当時の教会員の教会生活
(1)使徒たちの教えを堅く守る ここでの「教え」は、「あかし」「勧め」も含めた広い意味での使徒的教育全部を指しています。これが、当時の教会員の基準でした。現代に生きる私たちにとっては、新約聖書の教えを堅く守ることと言い換えればいいでしょう。
(2)交わりをすること ここには、共有、共通という意味のことばが用いられています。ただし、ここで注意すべきことがあります。46節、47節の多くの修飾語が示すように、これらの金銭的物質的共有生活が、単なる共同生活ではなかったということです。それらの生活が、「毎日、心を一つにして宮に集まり」つつ、「家でパンを裂き」ながら、「喜びと真心をもって」であり、「神を賛美し」つつであり、「すべての民に行為を持たれ」つつであったことです。これらの生活には礼拝や交わりやあかしの面もあったことがわかります。
(3)パンを裂く パンを裂くことが「食事をともにする」と区別されて記されていますから、これは聖餐式、つまり礼典を意味していると考えられます。大会堂のなかった当時の彼らは、家々に集まり、そこで聖餐式を行ったのです。洗礼式で告白した信仰を、こうして繰り返して告白しつづけたのです。
(4)祈り これは、個人の祈りの生活だけでなく、「宮に集まる」礼拝や「食事をともにし、神を賛美する」公同祈祷も含んでいました。当時のユダヤ人は、今の私たちほど忙しくはなかったでしょう。けれども、それでも、公同礼拝のために毎日宮に集まり、礼典と交わりのためにも毎日家々に集まるために、一同が心を一つにして、日々の生活を律して時間を作り出すことは、大変困難であったと思うのです。礼拝と聖書学び会を皆と共に持つことの困難さは、今に始まったことではないのです。けれども、その困難を克服させるだけの感激と喜びがあったということだと思います。
3.社会の反応
当時の世間の反応は、「一同に恐れが生じた(43節)」ことと「すべての民に好意を持たれ(47節」ことの二つに要約されます。
注目と関心をもって世間は教会を遠巻きに眺めていたのです。

結論
もう一度、42節から初代教会の姿をあげてみます。
・一定の教理基準 ・霊的な交わり ・主の晩餐 ・心一つにした祈り ・バプテスマ
・不思議なわざとあかしの奇蹟 ・貧しい者たちのための物質的な援助
誕生したての教会は、この世の大きな勢力からしてみるならば、まだ充分とは言えませんでした。
けれども、主は臨在をもって教会を励まして、力づけてくださいました。
救われた喜びと感謝をもって、真心から礼拝をおささげするお互いでありましょう。

ここまでよんでくださり、ありがとうございます。みなさまに神さまの祝福が豊かにありますように。

今回の聖歌♪ 新聖歌379
「主よわが罪と 汚れをきよめ 
日々主を宿す者とし給え
主よ今われの すべてをきよめ
御旨にかなう者とし給え」

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「礼拝のこころえ」No.9~No.12 [週報ミニコラム]

みなさん、こばにちは。お待ちかね、みんなのアイドルぶぅでございます。
冗談です。石投げないでね。
やっと6月の週報とチャペルタイム要約終わりました。
次から、7月のチャペルタイムになります。
遅くてごめんなさい(;´・ω・)
今回は、週報ミニコラム6月分です。

No.9 「礼拝の実際」礼拝順序について③ 賛美(1)「私たちは、賛美しないではおれない程の喜びを与えてくださる神を賛美する。」聖書の中には、祈りよりも賛美について多く語られている。教会の行きつくところを決めるとまで言われるこの賛美をもって、私たちは、礼拝を始め、心を込めて、感謝に満たされて神の前に歌う。

No.10 「礼拝の実際」礼拝順序について③賛美(2)「礼拝の賛美は教会の行く方向を決めると言ってもよい程大切である。」礼拝の賛美では、次の3点に留意しましょう。私たちの賛美はAする賛美(私がする賛美)Bいっしょの賛美(調和のある賛美)Cささげる賛美(常に自分のベストで)です。

No.11 「礼拝の実際」礼拝順序について③賛美(3)「賛美は教会の命、救われた者の特権、喜びです。」私たちは神に贖われた感謝を、喜びをもって主日礼拝式毎におささげします。上手下手や声の大小ではなく、心からの賛美をささげましょう。

No.12 「礼拝の実際」礼拝順序について④主の祈り「主の祈りは天と地を結ぶ祈りです。」主の祈りを祈るとき、私たちは御名をあがめ、神のみこころとその御国を思う。隣人との連携を感じる。時に自分の罪を示され、主の十字架を思う。惰性や慣れで祈らず、意味を噛みしめながら祈りましょう。時には読みながら祈るのも良いでしょう。

ここまで読んでくださりありがとうございます☆
みなさまに、神さまからの祝福が豊かにありますように。
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ノアと箱舟 6/25 [チャペルタイム]

みなさん、ちゃべにちは。間違えました。こばにちは。
ボーナスポイント獲得!!何の話かって?
知らない。
夜中で、テンションがおかしなことになっています。
頭の上で、鳥が飛んでいます。にゃあにゃあ言いながら。
大変!!
てことで要約です。今回はファミリー礼拝だよ♡

聖書箇所=創世記7:1~24
説教題=ノアと箱舟
中心聖句=ノアは、すべて主が命じられたとおりにした。(創世記7:5)

今日の聖書は、世界中に多くの人間が住むようになった頃の出来事が記されています。地上には人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾いていました。人間が神のことを忘れ、自分たちが「神の形に似せられて造られた」神に愛されている存在であることを忘れてしまった故でした。
けれどもこの時代、たったひとりだけ神の前に正しい人「ノア」がいました。彼は人の悪が非常に増大するなかでも、神から目を離さず、みこころにかなった生活をしていました。

本日の学びは2つのことです。
1つめは、「ノア」について、2つめは、「箱舟」についてです。まず、ノアについて、私たちは「一貫した信仰」と「信仰の従順」、またその結果としての、「家族の救い」を学びます。
本論1.ノアについて ①信仰②従順③家族の救い
ノアの神への信仰はいつも一貫しており、順境のときも、状況がどう変わっても、常に変わらなかったのです。神から箱舟を造るように、言われた時も、箱舟に入るよう言われた時も、ノアは神のおおせの通りに行い、従いました。ノアにとって、「神を信じる信仰」と「神に従う従順」は常に1セットでした。そしてノアは神を信じつづけ、従い続けた結果、「家族の救い」という恵みをいただきました。

本論2.箱舟について
箱舟に入る者は、誰でも救われるというメッセージは神ご自身からのものでした。神がノアに語られ、ノアが人々に語って聞かせました。ところが、当時の人々は、裁きも箱舟による救いも信じようとせず、かえってノアの話を愚かとしたのです。
では現代はどうでしょう。聖書は私たちに警告しています。堕落したこの地上に対して火による全面的な滅びがあるというのです。けれども聖書はイエス・キリストによる救いの約束も明らかにしています。現代に生きる私たちにとってのイエス・キリストは「救いの箱舟」です。イエス・キリストを信じる者は誰でも救われると、まさに全世界に語られているのです。

結論. 私たちの歩み
あなたはイエス・キリストによる救いをどのように受け止めているでしょう。このノアと箱舟の出来事を教訓に、神が聖書を通して語られる渓谷に、真剣に耳を傾ける者でありたいと思います。
今週もノアの「一貫した信仰」と「信仰の従順」に倣い歩み、信仰の歩みの結果として、神のタイミングにくださる「家族の救い」を祈り待ち望む者でありましょう。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

今回の聖歌♪ 新聖歌243
「あなたがたによくよく 言っておくが 誰でも 信じる者には永遠の命がある」

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ペテロの説教 6/18 [チャペルタイム]

みなさま、こばにちは。ぶぅでございます。
お盆明けですが、いかがお過ごし?
ぶぅは、日曜日の午前中(益子の教会は午後からなので)、お墓参りしてきました。
ぶぅの今年のお盆は、遊ぶ予定がいっぱい詰まってて、めずらしく忙しい毎日でした。
日曜日から日曜日まで全部予定いれて、でかけてたからね。
どんだけーみたいな。古いですか?
どんだけー☆
てことで、要約入りましょう。はい。

聖書箇所=使徒の働き2:14~42
説教題=ペテロの説教
中心聖句=ペテロは、このはかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。(使徒2:40)

前回、私たちは、2:1~13を通してエルサレムにおいて起こった不思議な出来事について学びました。イエスが昇天なさってから10日後、約束の聖霊が確かに降ってこられたこと、また、聖霊が不思議なしるしを伴って、弟子たちのところに降ってこられたことを確認しました。
弟子たちは、人々を恐れることなく、聖霊によって大胆に福音を語り始めたのでした。外国語のわかる人は、驚嘆しましたが、外国語を知らない人々は、「酒に酔っているのだ」とあざけりました。

序論 誤解を解くペテロ
これらの二つの反応を示した人々に対し、ペテロが代表して答えたのが、14節~36節までの長い演説です。これはキリスト教会最初の説教です。このペテロの説教の内容は、一言でいえば、「イエス・キリストと聖霊」についてです。弟子たちは、この日、大きな誤解を受けました。ペテロはまず「甘いぶどう酒に酔っているのだ」からだと考えられた現象の原因について、人々に説明します。ペテロは、「時刻」という客観的な状況から弁明を始めました。
ペテロはなお、弁明を続け、本当の原因を示します。この日の出来事、特に17、18節は世の終わりの時代に注がれる神の約束であり、今まさに、このことばが成就したのだとペテロは言っているのです。

本論1. 福音を語るペテロ
1つめ、主イエス・キリストご自身を福音として語りました。主の十字架の死と復活と昇天とが彼の語る説教のポイントです。なお、ペテロの説教で興味深いのは、そのイエスが不法な者の手によって十字架につけられて死んでしまったというのに、このことすら、「神の定めた計画と神の予知とによって(23節)」起こった出来事として認識している点です。
2つめ、「キリストの復活」についてです。彼はキリストの復活を力説することができました。なぜなら、ペテロだけでなく、共にいた弟子たちの多くが、その目撃者であったからです(32節)
そればかりではなく、彼はこの事実がすでに旧約聖書の詩篇の預言の成就であったとの確信があったために力強く語ることができたのです。旧約の預言には、メシヤつまりキリストは苦しみを受けて死にますが、再びよみがえるとされていたのです。
最後に、ペテロはダビデとイエスとの対比を続けつつ、「復活したイエスの昇天」についても論証しました(34~35節)。ペテロは主イエスの十字架の死と復活と昇天こそを福音としました。それは福音に触れた一人一人の魂が罪を悔い改めて、「イエスは主である」と信仰告白するためでした。

本論2. 説教に対する反応
このペテロの説教によって人々はいくつかの反応を示しました。一つ目は、「罪の自覚と求道」です。「このイエスをあなたがたは十字架につけたのです」という単刀直入なペテロのことばを聞いた人々は「心を刺された(37節)」とあります。彼らにはキリストを否む人間の罪が、このときわかったのです。
二つ目は、「悔い改めと信仰」です。ペテロの説教によって心を刺され、切実な求道へと導かれた人々に対して、ペテロは何よりもまず、「悔い改め」を勧めました。曲がった時代には不品行や偶像礼拝が増えます。そして何よりも残念なことは、大切な愛が冷えてくると聖書は教えているのです。けれども、私たちを愛される神は、解決の道、救いの道を備えてくださいました。そして、そのために不可欠なのは、神に対する罪の悔い改めと救い主イエス・キリストへの信仰であると続けます。

最後に、初代教会は、聖霊によってすばらしいスタートを切ることができました。私たちもこのペテロに倣って、いつでも、だれにでも、「イエス・キリストの十字架の死と復活と昇天」について、また、「私たちの内に住んでくださる聖霊」について、人々に伝える準備をさせていただきたいと思います。そして、私たちも、常にこの聖霊に満たされながら、キリストのお姿にまで似せられるお互いでありたい、聖化の歩みに生かされるお互いでありたく思います。

ここまで読んでくださり、ありがとうございます。

今回の聖歌♪ 新聖歌175
「胸の奥に潜む 罪と汚れに 人知れず悩むは 誰ぞ誰ぞ
すがれイエスに イエスの愛に 心は平和と 喜びに満ちん」

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